かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

盆栽教育論(4) 鉢に入った子供Ⅲ

○与え「られる」環境

 「鉢」の環境を整えるように、家庭環境を整えること。

 それはまさに教育がはじまる前夜のことなのかもしれませんが、教育の仕事をしていて思い知らされるのは、その子供が生きる土壌の善し悪しであり、ここが根腐れしてしまっていては、いかに指導したところで、その子供には十分な栄養が行き届かないのです。

 盆栽も教育も、まず最初のスタートダッシュはここなのです。「環境」を整えることとは、多かれ少なかれあらゆる制約の中で育たねばならない両者に負荷されたマイナスを最小限に軽減してやることなのです。

 このトリートメントさえ上手くいけば、「鉢」の中で生きる制約は寧ろ、徒長や葉の大きさが抑制された「しまった」樹形を可能にするでしょうし、それは子供の語彙力や、それに伴って「言葉によって思考する」能力を伸ばすことに一役も二役もかうことでしょう。万全の「環境」はマイナスをプラスに逆転させてなお余りある武器を両者にもたらすのです。

 土が目詰まりしてしまったら、盆栽ならばすぐに植え替えを断行するところが、哀しきかな子供はそれが出来ません。その鉢をいますぐにでも叩き割って、変色した土をこそげ落としてしまえれば、こんなにラクな話はありません。畢竟するところ、最も教育が届かないのは、いい加減大きくなった樹であって、適切な環境が与えられないまま大きくなってしまった人間がつくる(再生産する)「環境」なのかも知れません。

 盆栽も、私たち大人も子供も「鉢」に入って生きています。そして私たちも盆栽たちも、同様にたった一人で生きて行くことなど不可能なのです。それが不可能である以上、両者はいずれも絶えず誰かによって働きかけられていなければなりません。それは見ようによっては、たいへん残酷なことでもあります。

 「鉢」に入れた以上、この世界に産み落とした以上、その「環境」づくりに腐心しなければならないのは、当事者の責任であり義務であります。樹づくりがはじまる前に、本格的な教育がはじまる前に、既にして「教育」は始まっているのです。