かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

盆栽教育論(11) 樹と子供の個性 Ⅱ

○観察よりはじめよ

 「自分の思った通りにならなかったから、この子供の教育は失敗した。」という嘆きの後に、一切の手立てが中絶されるように、「自分の思い通りにならなかった樹」もまた、棚場の隅で同じ姿のまま水だけやって放置されるというのが、盆栽あるある。匙を投げられた子供と、愛好家がその興味関心を喪失した盆樹とは、非常によく似ています。

 この二つに通底する問題こそが、「かくあらねばならぬ」という実に凝り固まった教育観に他なりません。育ての主の意に沿わなくなった瞬間、たちまち切り捨てられる彼らには、いずれも「プランB」と呼ぶべきものが用意されていないのです。

 樹を育てるにせよ、教育を行うにせよ、同じ生き物を相手にする以上、それが「計画(人為)の通りになる」なんてことは、まず稀なことだと思ってかかった方が賢いのかもしれません。大事なのは日々変化する彼らの調子に合わせて、柔軟に対処していくゆとりであり、「こうなってくれればよい」という大まかな方針さへあればよいのではないか、と私は思うのです。

 そのためにも、日々の観察は欠かすことが出来ません。鉢の乾きがいつもより遅い、葉が変色している、少し疲れている、いつもと顔色が違う、へんにナーバスになっているのはなぜか・・・そんな状態のあれこれをつぶさに観察することによって、その場その場の最善策を講じる必要があるのです。

 しかしながら、それは場当たり的な、その場しのぎの策という意味ではありません。目先の問題に対処することにばかり囚われてばかりいては、早晩その樹も子供も、どうなるのが正解なのか、目指すところが不明瞭になってしまうおそれがあります。これではどこかの国の近視眼的な政策と何ら変わるところがありません。

 日々の観察から導き出される対処やケアの延長線上には、必ず将来の明確なヴィジョンがあってしかるべきなのです。「こうなってくれればよい」という大まかな枠組みから著しく逸脱することのないように、ゆるく軌道修正しながら「よい芽」を見つけ育てていくことが、お家で出来る教育と盆栽の最善手なのです。