かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(65) ねじれ英語教育 Ⅱ


 今や小学校から英語の勉強を義務化されているわれわれは「国際競争力」の名の下に、いったい何と競うことを企図されているのか・・・。

 おそらくそれは、資本という優勝劣敗ゲームのもとに目まぐるしく変転する世界市場という場において戦える人材になることを嘱望されているのではないでしょうか。

 この国際市場において日本人が勝ち抜けることイコール、自国に流れ込むバックも増えるという寸法は見え透いています。しかし、そんな芸当が出来る人材は技術力と一緒にとっくに外国に流出しているか、海外の「まだ」安い人材コストをアテにして向こうに生産拠点を確立し、税金対策もしっかり行うツワモノに他なりません。

 そんな切ない状況下にあって「国際競争力」なんて言葉はいよいよ空疎なものとなり、母国語の読解力も差し置いて「早くから英語をさせなきゃ」なんてアホな了見が往来を闊歩する世の中には、ほとほとうんざりさせられる次第です。

 ロクに日本語の本も読めない子供に、猿マネみたような英会話なんてさせる。これではとても「鹿鳴館」を笑う資格はありますまい。

 しかも極めつけは大学入試。

 スピーキングを入試に取り入れる、なんて寝ぼけたことを文科省が語ったのはいつのことでしたか、例の「共通テスト」とやらはフタを開けてみれば長文読解の嵐。スピーキングなんてどこ吹く風で、そこには相変わらず「書き言葉」としての英語が盤踞しているわけであり、結局のところ英語教育がどこへ向かっているのかなんて、学習している誰にも分からぬままなのです。

 書き言葉と話し言葉は、そもそもその性質を異にするものであり、書いてある文を読解出来たとしても、いまそこにいる外人に向かってその感想を表現し、伝えうるかというのはまた別の問題なのです。

 「国際競争力」なんていびつな目標に走る前に、われわれはこんな「ねじれ英語教育」より前にもっとすることがあるはずなのです。日本語を話せても、ロクに日本語で表現できない人々を何とかせねば、早晩この国はバベルの塔の島国バージョンと成り果てるのでありましょう。