「ぼくねぇ、帰ったらユーチューブみるんだ」と幼稚園児が言う時代になった。確かにそれについて否定するわけではないのだが、彼の台詞は次のように続くのである。
「寝るまでみてるよ。あとね、お休みの日はねぇ、ずっとみてる」なるほど休日の過ごし方は人それぞれであり、一日ユーチューブを視聴してはいけないという法はない。しかしながら、どうにも私にはこんな幼稚園児や、小学生が一日中画面を見つめている光景が、空恐ろしくてならないのである。如何に彼らが有意義なものをそこから受容していたとしても、彼らはそれをどこかにアウトプットする場面はあるのだろうか。
子供のなりたい職業欄に「ユーチューバー」なるものが食い込むのは、結局彼らがユーチューブという世界で情報を摂取し、それを同じ場所において還元しようとする再生産の試みでしかないのだ。それは無理もないことであろうし、止めようにも止める手段のないことである。
私が心配しているのは、この閉じた循環を彼らが志向するあまり、その世界の〈外〉でものを考えたり、他者と交わったり、そこで何かを表現する手立てがいよいよ痩せて貧相なものになりやしないか、というところなのだ。
われわれの社会は、少なからず人々の知恵や努力の還元によって成り立っている。大学で身につけた学問しかり、手に付けた職業、芸術しかり、そうしたスキルを少しずつ皆で持ち寄ることで社会という土壌は耕されてきたはずである。そこへ来て、いざ未来を担う彼らに〈内〉へ引き籠もられた日には堪らないのである。
だからこそ子供たちには、ひとつでも多くの〈外〉を知ってもらう必要があるのではないだろうか。それは、一日中スマホの画面にかじり付く子に、それでないものの面白さ、価値観を提示する試みであると言い換えることが出来るだろう。そしてこれは生身の他者という存在を抜きにしては語れない。
何も、ユーチューブばかり見るなと言っているのではない。ただ忘れてほしくないのはその狭隘な画面の〈外〉に、救いの手を必要としていたり、素敵なインスピレーションを触発してくれる誰かがいるやも知れないということなのである。もちろん、これは子供に限った問題ではない。バーチャルの世界に、結局のところ他者は不在なのである。
あまつさえ人と人の接触が憚られる今であればこそ、なおさら私たちは他者とかかわる時のナマな感覚を失ってはならないのだ。こんなことを考えてしまうのは、私がアナログな人間だからなのだろうか。