かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(44) レッテルを貼りますか? 後編

 「発達障害」とは各能力値(パラメーター)のアンバランスであると私は理解しています。健常児と呼ばれる子供より特化した部分もあれば、そうでない部分もある。それを知って、最善の策を講じるためにこそ診断はつくのであって、その子の教育はさらに質の良いものへと深化していかねばなりません。

 世の中にはどうにも、このことが分かっていない親というものがあるわけですが、果たして彼らは自分の子供に診断名がついたことを、どのように受けとめているのでしょうか。

 例えば、診断名が付かず、定期的に病院を行き来する親がいたとします。その親は自分の子供の落ち着きのなさや幼さが、普通の子供より程度のひどいものだと思っており、「自分的」には絶対に発達障害だと思い込んでいます。

 しかし、その子がいざ教室に来てみると、確かにわがままではあるけれど、発話もするし未就学ながらにひらがなや、数字だって読めます。これでは診断など付くわけがないのは明白で、私どもの見解をお伝えするわけですが、それを聞く親は一向に納得した様子を見せません。つまり頑なにその子の発達障害を疑ってやまないのです。

 出来るようになったことが多いにも拘わらず、延々と家庭におけるその子の悪行を論う親の話ぶりは、まるで裏付けを進める検事のようで、およそ悪い面にしか目を向けていないのです。

 これは最早「診断名待ち」の状態であり、「ほら、やっぱりウチの子はおかしかったのだ」と安心したくて堪らない態度の現れに他なりません。「診断名」つまりは「レッテル」を貼ることで、自分の子が他とちょっと違うのだと自他共に認めたい欲望こそが、その親を突き動かしているのです。認められることがゴールである以上、一体何がそこから進展を見せるでしょうか。

 このように、子供が診断された「発達障害」を親である自分に発行された「免罪符」のように認識しているからこそ、それが「教育をあきらめる」という短絡的な思考へと直結してしまうのではないか、と私は思うのです。その根底にあるのは、徹底的な無理解と自分本位な安堵を置いて他にないのです。

 「この子は普通とは違うから」という台詞が、「。」で以て収束してしまうのか、はたまた「、」によってその子の未来に向けた手立てが述べられていくのか。その差は驚くほど歴然としているのです。