かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

作文の時間(5) アウトプット賛歌 前編

 国語という教科において、「作文」は限りなく異質なものだと私は思うのです。

 普段の国語の授業といえば、テキストを読んで登場人物の心境の変化を追ったり、作者の論理展開を整理したりという作業を通して、文章を正確に読解する術を学びます。この点で読解とは、書かれた情報を正しくインプットするための技術である、と言い換えることができるでしょう。

 さて、では改めて「作文」とは何でしょう。真っ白い原稿用紙を渡されて「さあ、自由に書きましょう!」と言われたときの、大海原に放り出された感は半端なものではありません。これまで(眠気と格闘しながら)必死に教科書の字面を追っかけていたのに、突然一文字もない大平原に連れてこられた感じ、とでも形容すべきでしょうか。

 読解の授業であれば、テキストに使われている言葉を使って、その範囲内でものを考えればOKで、寧ろ自分で好き勝手に選んだ言葉を使って答案を書けばバツを食らってしまうのが関の山でしょう。そもそも読解においては、作者がどうしてその言葉を使い、そのような言い回しで表現を行ったのか、ということを最終的に追求していく必要があるため、われわれはつねに、既に表現(アウトプット)されたものを相手にしなければなりません。

 そこへきて作文はどこまで行っても「自由」で、それゆえにまた茫洋としています。だからどうやって自分の言葉の海に漕ぎ出して良いものか途方に暮れてしまう人々が続出するのも無理もない話です。なにせこれまでは作者の言っていることを、読み取れば良かったのに、作文となると外ならぬ自分が作者になってしまうのですから。

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