一個の人命が暴力的に奪われたことに対しては、同じ人間として心から哀悼の意を表さねばなりません。
しかし、そのことによって、被害に遭った人間がしてきたことが全てチャラになるわけではありません。ここの所をしっかり分けて考えられるか、そうでないかが「分別」の有無という分かれ目なのではないでしょうか。
テレビでは一日、取っ替え引っ替え、元首相の功績を讃えるかの如き報道を流し続けているわけですが、これは一体何をねらった試みなのでしょうか?
以前はあれほど、モリカケやアベノミクスとマスクの失敗や犯罪行為を追求しておきながら、非業の死を遂げた途端にそうしたものを顧みなくなる、というのはどうもフェアではありません。それこそアベさん的手法を継承してしまっているではありませんか。
こうなってしまうと、この国のテレビという存在も、結局のところどこかの独裁国家のお抱えメディアでしかないような気さへして、非常な「気持ちの悪さ」と失望を禁じ得ません。
テレビをはじめとするメディアの存在意義は、客観性にあります。一方でその死を悼みつつ、一方で過去の行状について再考を促す、それこそがメディアが対象を報じる態度であり、権力をチェックする機構としての責務に外なりません。
私が心配しているのは、こうした(日本的な?)偏った報道によって、人々の選挙行動に少なからざる影響が出るのではないか、ということです。
「同情票」「香典票」といった流れ票が、今後の日本の行き先に関わってくることに、私は深い嫌悪感を覚えます。選挙とは我々の明日を考えるためのものであって、過去に一票を投じるものではないのです。
それはそれ、これはこれ。そんな分別が、どれだけ日本国民にあるのか、そんなことを問われているように思えてなりません。