かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

塾生心得 正しく選ぶ為に 前編

 なぜわれわれは、自分から望んでもおらぬのに「義務教育」を受けなければならないのでしょうか?

 なぜこの国の大半の人々が、それを修了した後もわざわざ高等学校へ行き、今や結構な割合で大学へ進学するのでしょう。諸君はそんなことを考えた経験はありますか? 

 ここまで私と連れ添った諸君であればきっと、次に私が「それは学問をするためだ!」なんて言いたいのだろう、んな事はもう耳にタコが…と、ちょいとばかしうんざりしているやも知れない。 しかし、今回は少しばかり論点が違うのであります。だから今少しばかり待たれたし。

 もちろん大学に行くのは学問をするために違いない。「就職のため」「みんな行っているから」なんて奴は馬にでも蹴られて出直した方がいいわけでありますが、今日はそうした輩をディスるためにこの稿を起こしたのではないのです。

 それはもっと大きくて根本的な問題。なぜわれわれ日本国民が等しく「義務教育」を課されているのか、いったいその意義はどこに存在するのかという実に大それた点にあるのです。

 九年間にわたる義務教育の主眼は、専門的なものを除いた基礎的・一般的な領域を修める「普通教育」にあります。かみ砕いて言えばこれは全ての日本国民に、読み書きそろばん等の基礎学力及び、人格形成に資する情操を育んでもらうために、国が定めた修行期間みたいなものでありましょう。

 でもその後の高校、大学となるとこれは義務ではなくて、全くのフリーというわけで「行きたければどうぞ。就職にしろ進学にしろ、選ぶのはあなた方です。」と言われているようなものなのです。それは見方を換えれば、「選ぶ」ために必要な諸々のスキルは「義務教育」のうちに身につけておくようにしなさいね、というスタンスに他なりません。

 ですから、この「義務教育」を終えた国民は、自ら「選ぶ」ために必要となる最低限度のリテラシー能力と社会性を身につけた上で、次の高等教育へ進むことだって自分から「選択」可能な状態になっていなければならないわけです。

 しかし、哀しきかな現在は高校ひいては大学進学すら自分の確たる意思で「選択」する、というより寧ろ惰性ないしは流れで決まってしまう場合も多いことでしょう。

 別にそれが「当たり前だから」と言われてしまっては元も子もない話なのですが、そこに「自分で選択したのだ」という意思が伴わなければ、その「責任」だって付いてこなくなるものです。「自分は全然こんなことなんか望んですらいなかったのに、自動的に選ばされた」と錯覚しながら、高校大学と進んで行ったところで、一体何の徳があるというのでしょうか?

 私が諸君に、そして世の中の曲がりなりにも「義務教育」を終えた人々に忘れて欲しくないのは、この「選択」するという営為の重さであり、自分が選んだ道が良かろうと悪かろうと、きちんとその「責任」を自分で取ることの必要性なのであります。

 自分のケツは自分で拭く。主体的な「選択」と、それに伴う「責任」の二つがセットになっていてこそ、われわれは自分の「自由」を謳歌することが出来るのです。

 どうでしょう? 「義務教育」というやつは、随分と高い目標を設定しているということがお分かりいただけたでしょうか? (次回に続く)