四、〈忘却〉としてのくまさぶろう
「どろぼう」の上手い下手は、ごく一般的に考えて、アシが付きやすいか否かに関わってくるはずです。何の痕跡を残すことなく、お目当ての物だけ回収して警察もお手上げ、というのが上手な泥棒じゃないか、といったん定義しておくことにしましょう。
前半部のくまさぶろうの盗みは、確かに人に気づかれることもない、巧みな「どろぼう」ぶりではありますが、盗まれた張本人たちはそれらの物が無くなったことに後から必ず気がづくことでしょう。
一方、後半部の心を盗むところでは、少し状況が違っているのです。後腐れがないと申しましょうか、彼が心を盗んだ「りっちゃん」や「たっちゃん」はすっかり元気を取り戻し、それこそケロリとしています。
そんな彼らと前半部の「どろぼう」被害者たちを比較して決定的であるのは、まさに盗まれたという意識、喪失感がないことなのです。
なるほど、被害者が盗まれたことにさへ気づかれなければ、その「どろぼう」は被害届も出されませんし、アシが付くはずもありません。それはまさしく完璧な「どろぼう」であり、先ほど私が定義した「どろぼう」の上手い下手の基準をちゃんと満たしています。
盗まれたことにさへ気づかせない、そして誰の心も傷つけることがない。これこそが本テクストにおける「じょうずなどろぼう」なのではないでしょうか。
さて今回のテクスト分析は「じょうずなどろぼう」を一つの軸として読みを進めてきたわけですが、ちょっと見方を換えれば、この「じょうずなどろぼう」の仕事が、他ならぬ〈忘れる〉という心的作用と非常に似通っていることがわかります。
テクスト前半部における「傘」や「ミニカー」「シャベル」といった子供の玩具は、くまさぶろうに盗まれるターゲットであると同時に、〈忘れ物〉としてあまりにもありふれたラインナップです。喪失感を連れてくる〈忘れ物〉と同時に、後半部におけるくまさぶろうの盗みは〈忘れる〉ことがもたらす癒しという側面を物語っていると言えるのです。
われわれが〈忘れる〉という営みを通して、心の傷を少しずつ癒していくように、「くまさぶろう」という名の〈忘却〉は「まちからまちへ たびをつづけ」、そっと「かなしいこころを ぬすんであるくのです」。
以上述べてきた通り、くまさぶろうの〈成長物語〉として、そして〈忘れる〉という人間の普遍的な営みを表象する物語として「くまさぶろう」はあるのです。このテクストが実に突飛なお話に見えて、われわれを惹きつけて止まないのは、彼の「どろぼう」としての営みが、われわれがよく知る〈忘れる〉ことの読み替えに外ならないためなのです。