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二、言葉で世界を切り分ける
前回は、まいという人物が極めて冷静に自分の周りの世界を見つめ、自らの「苦痛」より他にない現状をよく把握するまなざしを持ち得ているというところまで話を進めて来ました。
今回は彼女と言葉の関係から〈言分け〉という考え方を援用しつつ、彼女の現実把握ないしは世界を切り分け文節化してゆく態度を見ていこうと思います。(以下、引用は新潮文庫『西の魔女が死んだ』より行います。)
(引用)
「それは認めざるをえないわ」
まいはもう一度呟いた。これですっかり言葉をものにできた気がした。
まいは時折、こんな感じで使い慣れない言葉をかなり意識的に使って「もの」にしてみるということをしています。これはテクスト中一度ならず何度か繰り返されており、二年前のみならず危篤の報せを受けている時点おいても、こうして違和感のある言葉を口に出してみる様子が確認されます。
言葉とは飽くまで自分で開発するものでない以上、必ず外部から輸入される性質を持つものです。ですからその獲得にあたっては、外側から輸入された言葉を自分の中で消化する、つまりはその言葉の意味やニュアンスを自分のイメージと擦り合わせる過程を通してはじめて言葉が自分の「もの」になるのです。
そうした営みを通して言葉が豊富になるということは、それまでイメージの中にふわっとしか存在しえなかったものや、名状し得なかったもやもやとした感情に、一つの輪郭を与えることでもあります。言葉によって不確だったものが対象化されることによって、自分の身の回りに存在する世界が見やすく整理される。これは言葉によって為される思考の深化と不可分な関係にあると言えるでしょう。
以上が私の理解するところの〈言分け〉のあらましですが、やはりまいはかなり自覚的に外側から入ってきた言葉を消化していると言えるでしょう。彼女のまなざしにどこか俯瞰的な傾向が見られるのはまさにそのためであり、まいはまいなりに言葉を摂取しながら世界を〈これはこういうものだ〉というふうに切り分け対象化する性質に長けているのだと考えることが出来ます。(次回に続く。)