かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

蝸牛独読(12)「西の魔女が死んだ」を読む#4


三、立ち現れる〈死〉

 言葉によって自分の周りの世界及びそこに存在する事象や他者を対象化してゆく営みとは、他ならぬまい自身の整理しきれない感情にもまた等し並みに作用していくものと思われます。

 その「感受性」の強さも手伝ってか、ママの言う「扱いにくい子」「生きにくいタイプの子」というある種の呪縛を抱えるまいは、次に挙げる引用部に顕著な、まさに名状しがたいものに苛まれる様子が窺えます。


(引用)
 しかし、その原始的、暴力的威圧は同じで、心臓をギューとわしづかみされているような、エレベーターでどこまでも落ちていくような痛みを伴う孤独感を感じる。そういうときは、ただひたすらそれが通り過ぎていくのを待つしかないのだ。
 それでその朝も、その泣くに泣けない孤独感をやり過ごしながら、台所に降りていった。大人になったら、これがどこから来て、何でわたしにとりつくのか解明したいものだと思いながら。


 少し長くなりましたが、右のような「孤独感」はやはり現時点においては「解明」されていないーー言葉によって対象化することが不可能な何かでしかないことが読み取れるでしょう。これが単なるおばあちゃんの家で覚えたホームシックでないことは明らかで、この「孤独感」は繰り返し、しかも「原始的、暴力的威圧」を以てまいに迫っています。

 果たして、これはただ事ではありますまい。これは一人ぼっちで寂しい、なんてものを通り越したところのよっぽど根源的な「孤独感」であり、それこそサミシイと言語化して済むものならば「解明」する必要もないわけです。

 私はこれこそが本テクストに通奏する〈死〉という低音であると考えています。それは次に挙げる場面においても如何ともしがたい「孤独感」の変奏として語られていることが了解されるでしょう。


(引用)
 それはまいがもう何年もの間、ずっと考え続け、恐れ続けてきたことだった。夜になると考えまいとしても、そのことが頭から離れなくなるのだ。そしてブラックホールに吸い込まれていくような気持ちになって、叫び出したくなる。もう何年もそうだった。


 これはまいが鶏の惨殺される光景を目の当たりにした日の晩に語られた箇所であり、お気に入りの「場所」で〈死〉のイメージを孕んだ不気味な声を聞いた(聞いてしまった)ことによって再び呼び起こされた「恐れ」であると言えるでしょう。まいが抱える問題は実に深淵であり、寧ろ人間一般にあいわたる普遍的な問題としての〈死〉は、抗いえぬ「原始的、暴力的威圧」として反復的に彼女を苛んでいるのです。(次回連載につづく)