かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(19) 言葉ドロボーを捕まえろ 前篇

 まず申し上げなければならないのは「子供は親とは別個の人格である」ということであります。

 子供が自分の分身であり、それが自分の成しえなかった事を代わりにやってくれる、という幻想を捨てきれぬ親ほどタチの悪いものはありません。

 子供にとってはイイ迷惑。まぁ「メイワクだなぁ」くらいに思って、親を対象化できる能力のある子ならよいのですが、そんな子なんてけっこうレアなわけで。親の干渉、および同一化がさも自然なことになってくると、そこにとめどない負の連鎖が起こってくるのです。

 自分に代わって親に全部を喋ってもらう子供は、応にして自分の意思を発言するということがない、というより寧ろ発言する必要がなくなります。子供は「自分の気持ちを親が代弁してくれている」と感じているかもしれませんが、そんなのは哀しい錯覚に過ぎません。

 親は親、子は子。心は通じていても、そのすべてなんて分からないのが人間の常というもの。ですから、こうした子供の錯覚は、その子供の思うところが親のそれと不可分に癒着してしまっていることによって引き起こされているのです。

 「相談がしたい」と教室へ子供と面談にやってきても喋っているのは親だけ。子供も恥ずかしいとか、はにかんでいるのなら、すぐに分かるけれど、それは明らかに思考停止の表情をして、親が喋り散らすのを「余所事」のように聞いている。

 時に、その親が「何にも出来なくて」とか「勉強しろって、いってもムダで」「少し遅れている」とか、聞いてるこちらでさへ堪えがたい言葉を、実の子供の前で公然と発表しているにも拘わらず、子供はどこ吹く風といった感じ。ぼおっとした表情で机の一点を見つめて、次の指示があるのを待っている様子。

 きっと、そんなのは慣れっこなのでありましょう。ものごころついた頃から、親は自分に代わって喋ってくれる存在なのです。でも、それはいつまで続くのでしょう?

 つまるところ、そんな子供達はこの「よく喋る親」については、およそ無批判的であり、その無批判的な態度はそもそも、言葉を親によって簒奪されていることによるのではないか、と私は常々感じているのです。