学校の先生ごっこと称して、子供が教員と生徒役をかわりばんこに演じているのを見たことがあります。
そこでは決まって教員役の子供が「○○ちゃん、ちゃんとしなさい!」と檄を飛ばしていたり、「ここは、こう! 次にこうやって、こうしなさい!」と、普段言われていることなのか、それともデフォルメして演じているのか分かりませんが、つい苦笑いしつつ眺めてしまいます。
やはり特徴的であるのは何と言っても、その「教え方」であります。それはあたかも箇条書きのように、「これをしなさい」「あれをしなさい」「次はこうしなさい」と、一から十まで全ての指示が言語化されていて、その指示をうける生徒役の子供達はにやにやしながら、それに従ったり従わなかったりしています。
まことにそれは微笑ましい光景でありますが、彼らの目に「教える」ということが、こんな風に映っているのだとしたら、それはそれでちょっと恐ろしいような、残念なような気もするのです。
実際のところ世の中には、そうした一から十まで的な「教え方」が横行している部分があると言わねばなりません。何せ私の近場にも、そうした指導を以て子供に相対する人間がいるわけですが、これはなかなかどうして、ごっこ遊びのように微笑ましいものではありません。
言うなればそれは、指示によって子供を雁字搦めに拘束するやり方に他なりません。確かに一から十までみっちりと指示を受けた子供は、それなりに計画された指導の行程を脇道に逸れることなく辿ることができるでしょう。
それはもしかすると、指導されること「のみ」に集中し得るという点において効果的なのかもしれませんが、見方を換えればこれは、子供達にある種の「思考停止」を強いるやり方とも取れるのではないか、と私は危惧しているのです。
助け船のつもりで出されたその指導は、ややもすると今にも沈みかけている「ドロ船」やも知れない・・・。言うまでもなくそれは人災に他なりません。