かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(66) 違うものは違う Ⅳ


 「違う、なんて言う権利がおれにはない」と退くのは誰にでも出来ること。それに比して「それは違う」と叱正した人の風当たりが強くなるのもまた避けられないことでしょう。

 ですが、万人がおめおめと非倫理的な行いの前に退却していてはロクな世の中になりません。「人には人の考えがあるから・・・」とそれぞれがご都合主義的な相対主義に凝り固まっていては、この社会のあらゆるところに覗き得ない深淵を孕んだタコツボが大量発生してゆくことでしょう。

 それでも「違う」と言うことは間違いなのでしょうか。タコツボ化の先に待つのは分断であり、思いやりの欠如なんて言葉ではまだ甘い、他者のいない世界に生きる人々の跳梁跋扈・・・学校教育を脅かすモンペとはまさに、そんな非人情なる世界の住人に他ならぬと私は見ています。

 「違うものは違う」と言える人と、そうでない人の違いはよもや強い精神力であるとか、押しの強さではありません。自分が「違う」と否定したことに対してきちんと責任を持てるか否かが、両者の態度の決定的な相違としてあるのではないでしょうか。

 この責任とは、自分が「違う」と下した判断についての審級を受け容れる態度であり、いざ異議申し立てがあればそれに対してきちんと応答し、説明する責任であります。遮二無二突っぱねたり、議論を回避するようではその責任を果たしたことにはならないし、その「違う」は単なる文句か野次に堕してしまうことでしょう。

 教育の現場に立つということは、そうした責任を背負い込むことであり、指導者としての倫理が絶えず問われ続けることなのだと私は思います。そうした責任を回避することはずいぶんラクな道であり、頭の良いオトナのやり方なのやもしれませんが、そんな態度は教育現場に無益な混乱を招くばかりです。

 「違うものは違う」。各人の倫理と論理に裏打ちされた「違う」こそが今求められているのやも知れません。