かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

盆栽教育論(13) 樹と子供の個性 Ⅳ

○性根を見据えて

 樹と子供の「個性」とは、その数だけ存在するといっても過言ではありません。しかしながら、「個性」とは時間の経過とともに自ずから顕現するものではなく、それを見いだし、磨くという行程を経ないことには、結局の所、宝の持ち腐れに終わってしまうものなのではないでしょうか。

 そんな「見どころ」をいち早く見つけて、その芽を大事に育てるためには、よくその素材を吟味し観察することを通して、その将来の青写真を構想していく必要があります。その際に注意しておかなければならないのは、樹づくりと教育を担う側が陥りやすい「錯誤」であります。

 「この樹はきっと将来こうなるはずだ!」という思い入れが強すぎるあまり、無理矢理手を加えて枯らしてしまったり、はじめから望み薄な枝をアテにしてしまうのは盆栽に限った話ではありません。

 最初からその子供に向いていないことに心血を注がせたり、能力を越えることをさせてしまっては、およそ子供の「個性」が著しく抑圧される結果となることは目に見えています。教育とは後天的な能力をどうこうするものでありますが、持って生まれた性根や能力をどうにかすることは出来ないのです。

 この点をきちんと肝に銘じておかないと、青い鳥を捜すように、あるはずもない「個性」を闇雲にもとめる羽目になり、それは盆樹や子供にとって実に有害きわまりません。無い袖は振れず、馬鹿な教育者の理想(幻想)が、彼らの前途を暗いものとするのです。

 今ある枝で、どのようにこの樹をつくっていくのか。この子供の性向に鑑みるに、どのようなアタッチメントやアプローチが最も適しているのか。結局のところ「個性」とはいま持てるところにしか存在しないのであり、とりあえずも何も、現状でいちばん「面白い」と感じられる「芽」を育ててみるより他に方法はないのです。

 だからこそ育てるという営みは、目の前にある素材の今現在をひとまず肯定するところからスタートせねばなりません。その性根を見据えて、樹と子供ととっくり向き合って対話を重ねることによって、はじめて「個性」の片鱗が浮かび上がってくるのだと私は思うのです。