蝸牛随筆(42) 盆支度 Ⅰ
ヘンなゴザを買ってきて、それを仏壇から垂らしてみたり、ナマのソーメンを買ってきて野菜と一緒に吊り下げたり。
子供の時分は盆というものがとくと不思議な行事だと思っていた。今もなお不可解な点はなきにしもあらずなのであるが、クルクルと旋回する盆提灯のブルーは子供心にも、どこか遠いところのものを眺めるような陶然とさせるものがあった。そんな幼時の体験の積み重ねかは分からないが、あの何かと慌ただしい盆の夜には、今も昔も特有の「にほひ」がするのだ。
気がつけば今度は自分が盆の支度をするようになり、ああでもないこうでもないと盆棚の塩梅をする私に、かつて同じようにああでもこうでもとやっていた写真の中の祖父が笑いかける。傍らでは転がるのに飽いた我が子がクルクルと旋回をはじめ、今し方組み立てた盆提灯のぼんぼりを指くわえて見物をはじめる。
何と目まぐるしい一年だったことだろう。それは、盆という季節を起点とする一つの「定点観測」である。淋しくなったり、賑やかになったり、家族という群像は年々歳々移り変わってゆく。私の前、そして祖父の前にもこの盆棚を吊っていた人があって、その人のよっぽど前にも同じ作業をああでもこうでもとやっていた人があったのだ。
そんなことに思いを致すと、ちょいとこそばゆいような気もするが、「形式」というものもやっぱり捨てたもんじゃない、という気がしている自分がある。