かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

盆栽教育論(1) 序

 互いにベクトルの違う「ゆかしいもの」は、いつかどこかの地点において不意に落ち合うのではないか、というのが私のぼんやりとした実感であります。

 たとえ性質の異なる別個の趣味であれ、学問であれ、雑多な読書であれ、それを一個の人間が「ゆかしい」「なぜかしらん無性にそそられる」と思うものを突き詰めたり、ひたすらに継続して掘り下げ続けると、いつかその軌跡と軌跡とが交わって、不思議なコラボを実現することがあるのではないか、と私は常々思うのです。

 「盆栽」と「教育」。

 一つは私が何となく始めた趣味であり、一つは私が世を渡るにあたっての稼業としているところのものであります。

 どちらの領域とも、付き合いがはじまってこの方十年以上が経過しているわけですが、ある時からこの二つのものが、えらく相似形をなしていることに気がついたのです。

 そのことに気づいた時、私は正直、ただ何となく興味をそそられてはじめた趣味の領域に、仕事のナニが浸食してきたようで、結局の所自分はずっと「教育」というものにかかずらっているのではないか、と辟易したのを覚えています。

 しかしながら、それは寧ろ逆であり「盆栽」を通して「教育」を眺める視点がここに生じたことは、私にとって「教育」とは何かを考え直す新鮮で重要な契機を与えてくれたように思います。

 おかげで、今となっては生徒の一人一人が、素焼きの鉢に入った若木に見える・・・と言うと、かなりヤバイ混淆のようにも聞こえますが、私なりの「盆栽」と「教育」のアレンジメントの一端を読者諸氏にご紹介しつつ、教育において変わらないものと、教育のこれからを考えて参りたいと思っております。

蝸牛随筆(10) 夜と光

 汽水の川が海に注ぐあたり。

 幾つもの川を横切って、平野を抜けて、小さな峠を二つ三つ抜けて、ようやくここまで来た。

 実に三年ぶりである。かつての写真と見比べると、父の頭には白髪が増えて、祖母の座高はちょこなんと低くなった。毎年来ていた海端の宿には、既に夜が訪れていて、ここからの眺望はびろうどのような闇である。

 辛うじて水の動くのを看て取れるのは、その河口に投げかけられた一条の光のたゆたいによる。その注ぎ出す先には、大きすぎる闇が身じろぎもせずに沈黙している。

 千切れそうな漆黒と沈黙の只中に、何故かくも儚い灯光が投げられるのだろうか。誰を照らすでもなく、私よりほかに誰が見つめるでもなく。それはあまりにもかそけき光である。

 だが、その光は夜の中に輝きを振り絞る。八方に伸ばした光のあしで、夜の懐にしかと食いついている。

 この、あまりに微かな抵抗について、海は何一つ返答を与えない。そしてただ、その灯火を抱きながら、大きくうねり、たゆたい、眠る。

塾生心得 一月のお便り

 比較的穏やかな天候とともに、二〇二三年がスタートしましたね。

 除雪作業なく年内の教室を終えられたことは、たいへん嬉しいかぎりでした。この調子でそっちの労力を指導の方へもバシバシ注いでいきたいところです。

 生徒のみなさんは、どんなお正月を過ごしたでしょうか。久し振りに遠くのおじいちゃん、おばあちゃんを訪ねた、という人もあったのではないでしょうか。

 親戚の家で昼間っからお酒を頂戴しながら、まさに余所事のようにコロナ発生のニュースを聞いていた、あのお正月から早三年、マスクで指導にあたることにもすっかり慣れっこになってしまいましたが、やはり教室をしている場面の至る所で、その不自由さを実感させられます。

 初出の問題を見つめる子の表情や、ちょっと難しくて心が折れそうになっている子の表情、ホントに分かってる? というのを判断したい時の表情など、生徒のみなさんの表情の如何は、けっこう指導の中の大事な要素だったりするのです。

 顔が見えない分は必然的に言葉によって補うより他ありません。しかしながら、言葉とは全ての人がイーブンなものではないのです。各人の間でいつも多かれ少なかれ、ズレを孕んでいるのが言葉というもの。だからそこは、お互いの言葉と言葉のチューニングを合わせつつ、そこに意思疎通の回線を構築するのに心を砕いてきた三年間でもありました。

 そして何より、顔を半分隠したまま出会って、さよならをするというのは、何かの縁で出会った人間同士として、やはりさびしい気がします。

 マスクが取れる日は、この日本のお国柄的にまだまだ先のことになりそうですが、今できる最大限の指導を通して、生徒のみなさんの持っているよい芽を育てていきたいと思います。本年も何卒よろしくお願い致します。

塾生心得 共通テスト覚書 後編

 「共通テスト」の国語で顕著なのは、二つの文章や添付されている図表を比較するというものです。以前は現古漢文を合わせて四つ、それぞれ二十分以内に読み込めば事足りたものが、しめて五つになったり、論説文にチャートが付いたり、果ては資料にまで目を通す羽目になったりと、やけに盛りだくさんになってしまいました。

 そうなってくると、これもまたある程度のスピードでさくさく読んでいくことが不可欠になってきますし、毛色の違う文章を比較するにあたっては、早い段階で双方の文章のテーマや意図を掴んで類似点や対照性を見いださなくてはなりません。

 練習問題を一緒に解いていても、なかなかどうして牽強付会な文章のマッチングに遭遇したりして、理解に苦しむこともありますが、そのマッチングの必然性を問うているヒマなどありません。

 ここにおいて求められているのは、与えられた情報のキャラクターをすばやく掴む能力であり、雑多な情報を即座に整理する能力なのです。

 こうした「求められる力」の変化は、世相の変化と密接に絡みついています。膨大な情報の束から必要な情報と、そうでもない情報を取捨選択する力とは、実にスマートフォンを片手に世を渡る現代日本人に求められている、いや、「そうであることを強いられている力」でもあります。

 私はあまりそういうのを好まないけれど、「センター」から「共通テスト」へ、時代は着実に変化しつつあるようです。そして諸君は、そんな過渡期にあって、まさにその荒波を漕ぎ渡らねばならぬ星のもとにあるらしい。

 しかし、どうか忘れないでほしいのです。学問とは「情報処理」作業の類いではないのです。いくら世間のニーズが変わっても、膨大な情報のメールシュトロームが唸りを上げようとも、学問の為すべき事は変わらないのです。

 深く〈読み〉、深く思考する営みだけは、決して変えてはならないのです。

塾生心得 共通テスト覚書 前編

 私はやっぱり「センター試験」と言ってしまうけれど、まぁ、大学入試センターがやってる試験なわけだから、ギリ間違ってはいないということでご容赦いただきたい。

 それでもこの程の「共通テスト」というやつは「センター試験」と比べると、どうも毛色が違って来たように思います。言うなれば、求められている力が変わってきているのです。ですから昔の「センター」の頭で取りかかると、結構な確率で痛い目を見るやも知れません。

 かつては知識をパンパンに詰め込んで、ゴリゴリ計算して、わしわし読解して・・・というのがまさに定石でありましたが、昨今の「共通テスト」では、そうした正攻法が通りづらい局面が多くなっているのです。

 英語においては発音だとか文法問題がきれいにこそげ落とされて、ほぼ全てが長文読解で構成されています。ですからこれらに正面からぶつかって丁寧に読解していたのでは、いくら基礎力を身につけた諸君であっても、無情のチャイムは否応なく鳴ってしまうことでしょう。

 正確な読解は基本のキでありますが、つまるところ「共通テスト」はあまりこちらにウェイトを置いていない、そうした力をあまり求めていないのです。求められているのは、眼光紙背に徹するほど深く読み込む能力ではなく、あくまで「情報処理能力」と呼べるものに他ならないのです。

 ですから、ある程度の正確さと早さで、必要な情報を即座に掠め取る技術を身につけていないと、この「共通テスト」という関門を突破することが出来ないのです。

 それは私の専門である国語についても言うことができるでしょう。

盆・再考 降る雪に

 冬囲いの中に入れてもらえなかった盆樹たちが、みぞれの降る庭に立ち尽くしています。

 やや年も暮れ。曲げたり追い込んだり、私の内に渦巻くエゴイズムによって実害? を被った樹々は暖かなビニールの保護室で養生しながら、「いやはや、今年はだいぶアイツにやられたよ。」「オレだって、見ろよ、こんな所曲げやがって。」「次のシーズンは植え替えてくれんだろうか?」なんて私の悪口を言っているような気がします。

 しょっちゅう手をかけている樹というものは、ふとした拍子に次の一手を考えつくもので、朝起きてやおら差し枝を抜いてみたり、思いも寄らなんだ枝を芯に立ててみたり、出来不出来に拘わらず何だかんだ、その形状を愛することができます。

 しかし、その一方には「あ、居たの?」という樹もある・・・。喩えるならば「千日手」。どうもこうも退っ引きならない状態のまま、二年も三年も前からその姿のままで今日に至る樹というものがあります。

 盆栽をはじめた頃に買って、後々そのどうしようもなさに気づいて意気消沈した一鉢であったり、誰かに頂いたのだけれど、下手をして枯らすのも申し訳ないし、どう手を付けてよいか思案しているうちに忘れ去られた樹が、今日のようなみぞれを浴びているのを見る度に、「ああ、来年こそは手を入れよう」という気持ちだけを毎年のように更新している体たらくであります。

 やはり、盆栽とは手をかけてナンボなのでしょう。棚の隅で疎遠になった樹を二年も三年も置いておくというのは、きっと盆栽をやるモチベーション的にもあまりよろしくないのです。と自分に言い聞かせつつ、来年こそは棚の稼働率アップを目指して、わがエゴイズムと「忘れられた樹」の火花飛び散る衝突を実現させる所存。

 「その方が彼らにとってもきっと幸せな筈である。」と、この年の瀬に及んで、背筋の凍るようなエゴイズムをチラ見せしつつ、一盆栽愛好家の一年が終わるのでありました。盆栽愛好家の皆さま、そして盆栽愛好家予備軍の皆さまにとって、来年がよい年でありますよう。いつの間にやらみぞれからかわった降る雪に祈りつつ。

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子宝日記(8) 子を連れて

 けっこう冷静に考えた。冷静に考えた結果、この時期に性別が分かるということは、生えているものが生えていた可能性が高い。長い沈黙のドライブの後、意を決して「男じゃないか?」と、あくまで当てずっぽう感を出しつつ答えを出すと、私の葛藤を知ってか知らずか「オッ、正解。」と実に軽い感じで妻が発表してきた。

 正直なところ、私はどちらが生まれても良かったのであり、それぞれに愉しみがあって、それぞれに苦労もあるだろうことは分かりきっている。強いて言うなれば、私の子供にも男子のサガが具わって、それをめぐってこの子もいずれ何だかんだの懊悩をする羽目になるのだろうと思うと、ちょっとした哀しみのようなものを覚えたけれど、それもまた人として生をうけることの味わいの一つなのやも知れない。

 桃の節句が予定日であったことから、こいつはきっと女の子だろうとふんでいたのだが、私に半分似ている野郎がやってくると決まると、まだ十二分にイメージが湧かない。

 湧かないままに、いつものスーパーに到着して入店する。私はいつもワープロが入って膨れたカバンを置くために、子供をのせる椅子がついたカートを選ぶ。今まではカバン置きにしか思っていなかったここのところに、遅かれ早かれ私はマイ・サンをのっけることになるのだ。

 それは何だか珍妙なことのように思われて、少しく吹き出してしまう。どんな顔をしてヤツはこのカートに搭乗してスーパーの景色を眺めるのだろうか。あれが食いたいとか、お菓子コーナーへ連れて行けとか、きっとよしなしごとを並べて足をぶらんぶらんさせたり、時には抗議の意味で靴を飛ばしたりなんて事もしやがるかもしれない。

 いやはや油断ならない野郎である。さはれ、わが子には「男子厨房に入れ」を、言葉ではなくて教えるつもりである。

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