かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

盆栽教育論(5) 鉢に入った子供Ⅳ

○「植え替え」に学べ

 夏の暑さでヤケてしまった根っこ、新鮮な水を求めて鉢底から飛び出した根っこ、粒子が潰れて目詰まりをおこした土・・・植え替えを行う際には、こうして悪化した鉢環境を徹底的に改善する必要があります。

 可能な限り古土を落とし、悪くなった根を切り詰め、きちんと粒子の大きさを選別した用土を適量ずつブレンドした後に、ようやく植え付けの段に入ります。根はちゃんと収まったか、樹はしっかりと固定されたか、土は適切にすき込まれているか、こうした行程の一つ一つを愛好家はそれなりに愉しんでいるわけでありますが、そのどれか一つがおざなりになっただけで、簡単に植え替えは失敗してしまいます。

 植え替えとは、樹にとってまさに生きるか死ぬかを左右する重大事なのです。根を切り土を替え、彼らが生きる環境を一新することは、大きなストレスを伴うのです。だからこそ、その後のケアは不可欠なものとなってくるわけなのですが、植え替えたばかりのこざっぱりした樹を見ていると実に心持ち好さそうに見えるのは、愛好家のサガなのやも知れません・・・。

 それはともかくとして、ここは折角の機会でありますから、ひとつ「人間の植え替え」について考えてみようと思います。

 前回も述べたように、子供の環境を変えることは土のように容易に「替え」られるものではありません。およそ家庭環境とは、子供にとって与えられるものであって、彼らが自ら作り出すことは難しいものであります。

 つまるところ、「環境」とは彼らをとりまく人間関係の如何によって決定されるところがほとんどであり、周りの大人が雁首揃えてスマートフォンを弄くっていれば、子供だっていずれはその仲間入りをするでしょうし、読書家の家の子供は物心つく頃から本を開き出すことでしょう。

 これはまさに、土壌的な問題に外ならないのです。だったら土壌の改善に乗り出さねばなりますまい。

教育雑記帳(44) レッテルを貼りますか? 後編

 「発達障害」とは各能力値(パラメーター)のアンバランスであると私は理解しています。健常児と呼ばれる子供より特化した部分もあれば、そうでない部分もある。それを知って、最善の策を講じるためにこそ診断はつくのであって、その子の教育はさらに質の良いものへと深化していかねばなりません。

 世の中にはどうにも、このことが分かっていない親というものがあるわけですが、果たして彼らは自分の子供に診断名がついたことを、どのように受けとめているのでしょうか。

 例えば、診断名が付かず、定期的に病院を行き来する親がいたとします。その親は自分の子供の落ち着きのなさや幼さが、普通の子供より程度のひどいものだと思っており、「自分的」には絶対に発達障害だと思い込んでいます。

 しかし、その子がいざ教室に来てみると、確かにわがままではあるけれど、発話もするし未就学ながらにひらがなや、数字だって読めます。これでは診断など付くわけがないのは明白で、私どもの見解をお伝えするわけですが、それを聞く親は一向に納得した様子を見せません。つまり頑なにその子の発達障害を疑ってやまないのです。

 出来るようになったことが多いにも拘わらず、延々と家庭におけるその子の悪行を論う親の話ぶりは、まるで裏付けを進める検事のようで、およそ悪い面にしか目を向けていないのです。

 これは最早「診断名待ち」の状態であり、「ほら、やっぱりウチの子はおかしかったのだ」と安心したくて堪らない態度の現れに他なりません。「診断名」つまりは「レッテル」を貼ることで、自分の子が他とちょっと違うのだと自他共に認めたい欲望こそが、その親を突き動かしているのです。認められることがゴールである以上、一体何がそこから進展を見せるでしょうか。

 このように、子供が診断された「発達障害」を親である自分に発行された「免罪符」のように認識しているからこそ、それが「教育をあきらめる」という短絡的な思考へと直結してしまうのではないか、と私は思うのです。その根底にあるのは、徹底的な無理解と自分本位な安堵を置いて他にないのです。

 「この子は普通とは違うから」という台詞が、「。」で以て収束してしまうのか、はたまた「、」によってその子の未来に向けた手立てが述べられていくのか。その差は驚くほど歴然としているのです。

教育雑記帳(43) レッテルを貼りますか? 前編

 自分の子供が「ちょっと周りに合わせられないようだ」「自分の手にはどうにも余ってしまう」という焦燥に駆られた親が、思い詰めた末にやってしまうのが「レッテル貼り」という現象であります。

 どんな「レッテル」を貼るかと言えば、すぐさま大きな病院のさる筋で有名な先生のところへ連れて行って「発達障害」のレッテルを貼ってもらう。一回で診断がつかなかったら、何回も連れて行って何かしらの病名を頂戴して来るわけですが、さらに酷いのは、それを理由に子供の教育を断念する親であります。

 「ずっと学校の先生に言われていて、この間病院に連れて行ったら、発達障害と言われたので教室もやめさせていただきます。」というお断りの文言を、私は何度か耳にしています。これまで教室では他の子と変わりなく、自分のレベルに見合った学習をきちんとこなしていた子が、「発達障害」を理由に、ある日突然教室を去って行くのははなはだショッキングな出来事であり、そこに猛烈な理不尽を感じてしまいます。

 確かに、どうしても集団生活になじめなかったり、学年相当の学習について行けない子供に、何かしらの診断がつくことは仕方のないことであります。しかしながら「発達障害」と診断がつくことは、学習をあきらめることと同義なわけがないのです。寧ろ、そうした診断をもらうということは、「その子に相応しい支援をはじめましょう」というきっかけに過ぎないのです。

 そこを取り違えてしまう親が、つまりは「レッテル」だけ欲しい親が一定数存在していて、診断が下った日をきっかけに、きれいさっぱり教育をあきらめる無理解に対して、私は憤りと危機感を覚えるのです。

子宝日記(9) 我が子のかかと

 「日に日に妻の腹は膨れてくる。」

 いかにも近代文学が好きそうな一節であるが、オートマチックに膨れ上がってくる妻の腹を見つめる夫という存在は、だいたい戦々恐々としているものではあるまいか。

 ちょっと前まで、何ほどの変化もなかった腹が「産休」であるとか「八ヶ月」の声を聞いたとたんに膨張をはじめるものだから、ある日風呂場でギョッとさせられる。毎日見ていないわけでもないし、日々もう止したがいい、と言われるほど触ったりリズムを刻んだりしているのであるが、それが明らかに昨日の腹と違うなんてことが、このところよっぽど多くなった。

 かつては「暗い水たまりの泡」の写真に無理矢理我が子の「実感」を得ようとあくせくしていた父も、こうなってくると「実感」というものによってにわかにジャックされた自分に戸惑いを隠せなくなるものらしい。

 寧ろ「実感」しかないのだ。そんな実感の塊が妻の腹の中に立てこもっているような感じ。あと二た月したら出て行くと言っているが、ここのところ随分と図体と態度がデカくなった所為かしらん、頻りと腹の中で動いたり伸び上がってみたり、やおら蹴り上げたり回転をはじめたり、夜となく昼となく好き放題に暴れ回っては「オウ」と妻を竦ませている。誰に似たのか、たいへんにバイオレンスな我が子である。

 そして私は昨日、我が子の「かかと」を妻の腹越しに触ってしまったのである。ぐいと内側から腹の皮を圧してきた足の形。その確かな形状と圧力をわが掌に感じる。最も圧力を伝えてくる、その円みを帯びた部分は、紛れもない「かかと」である。我が子のかかとである。

 とはいえ我が子よ、そんなに激しく蹴り上げたら、ご覧、君の母上が苦悶の表情をしているではないか。誰に似たのか、ほどほどというものを能く知らないらしい。

katatumurinoblog.hatenablog.com

盆栽教育論(4) 鉢に入った子供Ⅲ

○与え「られる」環境

 「鉢」の環境を整えるように、家庭環境を整えること。

 それはまさに教育がはじまる前夜のことなのかもしれませんが、教育の仕事をしていて思い知らされるのは、その子供が生きる土壌の善し悪しであり、ここが根腐れしてしまっていては、いかに指導したところで、その子供には十分な栄養が行き届かないのです。

 盆栽も教育も、まず最初のスタートダッシュはここなのです。「環境」を整えることとは、多かれ少なかれあらゆる制約の中で育たねばならない両者に負荷されたマイナスを最小限に軽減してやることなのです。

 このトリートメントさえ上手くいけば、「鉢」の中で生きる制約は寧ろ、徒長や葉の大きさが抑制された「しまった」樹形を可能にするでしょうし、それは子供の語彙力や、それに伴って「言葉によって思考する」能力を伸ばすことに一役も二役もかうことでしょう。万全の「環境」はマイナスをプラスに逆転させてなお余りある武器を両者にもたらすのです。

 土が目詰まりしてしまったら、盆栽ならばすぐに植え替えを断行するところが、哀しきかな子供はそれが出来ません。その鉢をいますぐにでも叩き割って、変色した土をこそげ落としてしまえれば、こんなにラクな話はありません。畢竟するところ、最も教育が届かないのは、いい加減大きくなった樹であって、適切な環境が与えられないまま大きくなってしまった人間がつくる(再生産する)「環境」なのかも知れません。

 盆栽も、私たち大人も子供も「鉢」に入って生きています。そして私たちも盆栽たちも、同様にたった一人で生きて行くことなど不可能なのです。それが不可能である以上、両者はいずれも絶えず誰かによって働きかけられていなければなりません。それは見ようによっては、たいへん残酷なことでもあります。

 「鉢」に入れた以上、この世界に産み落とした以上、その「環境」づくりに腐心しなければならないのは、当事者の責任であり義務であります。樹づくりがはじまる前に、本格的な教育がはじまる前に、既にして「教育」は始まっているのです。
 
 

盆栽教育論(3) 鉢に入った子供Ⅱ

○土と家庭

 「自然状態」の「本来の姿」の子供なんてものが初めから存在しないように、もちろん「自然状態」の盆栽なんてものも存在しないのです。そんなのは、ただの樹であって盆栽ではないのだし、「狼少年」だって狼の規範と環境を与えられて育てられた子供に過ぎません。われわれの前に現れる子供も盆栽も、漏れなく「鉢」という「環境」と切り離しがたく生きているのです。

 鉢に入った樹も、如何なる社会や家庭に生きる子供も、およそ誰かの手が入らないことには生存が危ぶまれてしまいます。つまるところ両者は、一人で生きていくことがままならない、という点において何ら変わるところがないのであり、そうした存在である以上「与えられた環境」によって、その成育状況に驚くほどバラツキがでるところも一緒なのです。

 盆栽の生育に欠かせないのは、光であり水であり、そして「鉢」の中の環境、つまりは土壌であります。この土壌をつくるために、愛好家はその樹の生育に適した種類の用土やpH、保水力などを計算して、根を張りやすい環境を拵えます。もしここでテキトーなあり合わせの土や、選別のされていないゴロ土などで間に合わせようものなら、植え替えは大失敗、たちどころに根腐れを起こしたり、葉をふるってしまうことでしょう。

 よく吟味された土壌に育つ盆栽が、手をかけただけの成長を見せるように、素敵な家庭環境を与えられて育てられた子供は、情緒面そして語彙力の面において目に見える成長ぶりを発揮します。同学年の子供であっても、これほどまでに差が出るものか・・・各家庭の親たちはこれを知る機会にめぐまれていませんが、教育現場の人間はそれをよく知っています。

 風通しのよい土が根の生育を促進し、そこから効率のよい水や栄養の吸収を可能にするように、豊かな言葉に囲まれて育った子供の言語能力や、情緒面の安定は、そのまま彼らの学力に直結してくると言っても過言ではないのです。。

盆栽教育論(2) 鉢に入った子供Ⅰ

○よく似たふたり

 盆栽が生きるのは鉢の中。

 鉢に入れられた樹は、ほしいままに根を伸ばすことも出来なければ、それによってぐんぐん一人で伸び出すこともままならず、ちょっと陽気が好ければ、いつだって水切れの危機と隣り合わせの状態です。鉢に入っていることは、樹の生育にとって寧ろマイナスの要素が大きいのです。

 だからそこには、鉢に入れた張本人である人間の手が入らなければなりません。根は詰まっていないか、他の枝の生育を脅かすほど徒長している枝はないか、さっき水はやったけれどもう乾いている鉢はないか。自分でやったことの責任を取るのは当たり前、と捉えることもできましょうが、盆栽を育てる人は少なくとも、こうした作業を恒常的に継続して行うことを求められており、それをサボれば鉢の樹はいとも容易く枯れてしまうのです。

 しかしながら、これはそのまま子供にも当てはめてみることが出来るのではないでしょうか。試みに「鉢」を彼らが生きる「社会や家庭」に置き換えてみると、確かに子供は生まれながらに「彼らが生きねばならない環境」を与えられると同時に、良かれ悪しかれそこから何かしらの制約をうけていると言えます。まさに「鉢」は選べないのであります。

 そう言うと何だか子供は、ひどく窮屈な制約をうけているように感じられますが、ここで一つ注意すべきは、その対極に「そうでない状態」、言うなれば「自然状態」というものを想定することは出来ないという点であります。社会の規範から離れた場所がもし仮に存在したとして、そこで野性味たっぷりに子供を育てるにせよ、「育てる」という行為(作為)を排することが不可能である以上、その子供はやはり何らかの規範と環境を「与えられて」育つことになるのです。