かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

塾生心得 モヤモヤするってことは Ⅰ


 塾生諸君、最近モヤモヤすることはありませんか?

 受験を控えた人ならば、だいたい部活動も一段落したところであろうし、夏休みも終わった、模試なんてものもはじまった・・・思ったより結果が振るわない、「これはヤバいぞ?」という局面にあって、いよいよ「勉強をしなくちゃ・・・」という気分になって来た人もあることでしょう。

 しかし、「やらなくちゃ」と頭では分かっているのに乗り気がしない。なぜかしらんそれと違ったベクトルが自分の中に厳として働いていて、「やらなくちゃ」ならないことにどうしても身が入らない・・・宿題を片付け、とりあえず休憩のつもりでスマホをいぢっていたら、アラ不思議、もう寝る時間が来ている。これは「やる気」の問題なんだろうか? いや、そんなカンタンな言葉で回収してほしくないけれど、それが何なのか自分でも分からない・・・ただ何となくモヤモヤする。

 こんな、この時期特有の症状に悩まされている人はありませんか? 大丈夫、私はそう簡単にそれを「やる気」云々の問題として回収する気はありませんのでご心配なく。

 受験生もさることながら、およそ中高生の皆さんは総じて子供時代から大人時代への長い長い過渡期にあると言ってよいかも知れません。小学校の延長という気分で中学校に入学したかと思えば、いつの間にか自分の外野が「進路、進路」と騒ぎはじめる。自分はただ義務として学校へ通い続けているだけなのに、タノシイブカツを頑張っていただけなのに、突如として将来の話をフラれ「将来のヴィジョンを持て」と言われる。

 よくよく考えてみると、これは実に「なんすか? それ?」という話ではあり、モヤモヤ不可避案件ではありませんか。その点私はいま現在その当惑とモヤモヤの真っ最中にある諸君に同情を禁じ得ないのであります。

育児漫遊録(37) 頸は燃えているか? Ⅲ


 六ヶ月を迎えた我が子の頸は、あの頃のぐちゅぐちゅの真っ赤っかがウソであったかのようにキレイになった。

 もちろん、お医者さんをはじめとする医院のみなさんのセカンド、サードの助言と、自分で言うのもなんであるが我々夫婦が一日二回せっせと洗って、保湿と塗り薬をせっせと塗りたくったことも改善の一つの要因であろうが、最終的には時間が全てを解決したようである。

 二ヶ月、三ヶ月のうちはひたすらむちむちで、およそ真空パックみたいに密閉されていた頸は、四ヶ月、五ヶ月ごろになると次第に人らしいすっきりしたフォルムを手に入れはじめたのである。そうした成長が泥沼化した湿疹とぐちゅぐちゅの坩堝に、素敵な光と風を呼び込んできたらしい。

 毎日見ていると、その連続的変化には一向疎くなるものだが、頸の赤みが劇的に退いてきた時期に、かつての写真を閲覧して驚いた。曙から寺尾、いや小錦から舞ノ海くらいの肉付き的な違いがそこに厳として確認されたのであった。心なしかその頃からミルクの飲みも良くなったところには、やはり彼の中で頸の不調が少なからず不快な要素としてあったのだろう。

 ベテランの看護婦さんが言っていた「もう数ヶ月の辛抱」はホントであったけれど、当事者であるわれわれにはその数ヶ月はまことに長い、いつ終わるとも知れぬ戦いの日々であった。治ったと思えば再燃し、再燃したかと思えばまた治りかける・・・。あの赤い発疹にオトナ二人が見事に翻弄された四ヶ月であった。

 現在無事に六ヶ月を迎えた我が子は、ベビーバスを卒業し一丁前の湯船に浸かっている。つるんつるんと撫でるように頸を拭いてやると「へへっ」とほくそ笑む。まるで「あの頃はエライことだったな」とでも言っているかのようである。

 されどやっぱり一日一度は顎を挙げてしげしげとかつての古戦場を確認する私たちがある。

 「頸は燃えているか?」
 「大丈夫みたい・・・。あれ? ちょっと赤いよ?」

 汗疹(あせも)の侵攻は頸の遙か後方から、じわじわと迫っていた。

塾生心得 九月のおたより

 暑さ寒さも彼岸までと言いますが、はてさてこの残暑、あと半月でおさまることやら。夏休みが終わり、生徒のみなさんはきっと休み中に蓄えたエネルギーを、鋭意日々の勉強につぎ込んでいることでありましょう。

 え? 夏の疲れが出てバテている? 今日はそんなみなさんのためにも、元気が出るドリンクの製法ではなくて、効率的にお勉強の栄養を摂取するための学習法をご紹介したいと思います。

 その名も「秋の夜長学習」・・・。なるほど! と早合点したそこの君、私は決して涼しい夜を利用して二時三時まで勉強せよ、と旧弊なことを申しているわけではないのでお間違えなく。

 私がオススメしたいのは、寝る前のほんの五分、十分を使って、今日自分が勉強した内容を頭の中で整理するという学習習慣であります。今日覚えようとした漢字を宙で書いてみるのもよし、解いた問題集の引っかかった箇所の解法をおさらいするでもよし。社会の暗記項目、理科の実験手順でも何でも、とにかく今日という日に自分の頭に入れたもの(入っているもの)を確認する時間を作ってほしいのです。

 つまるところ、そうして思い出せないものは、誠に残念ながら頭には入っていないのです。自分で想起して、それを言葉や数式で説明出来るなら、それはきっと頭の中に知識として定着しているはず。どれが分かって何がイマイチだったのか、そうした確認と反省の時間があることによって、学習の質は必ず向上します。

 秋の夜長、鳴き出した虫の声を聞きながら、就寝前のひととき自分の頭と語らってみるのはいかがでしょうか?

育児漫遊録(36) 頸は燃えているか? Ⅱ


 我が子の頸は燃えている。

 このままでは頸がぐちゅぐちゅの赤ん坊になってしまう。ただならぬ危機感に苛まれつつ、私と妻は頸の炎症が進む根本的な要因を話し合った。

 第一に彼の頸は例のむちむちに閉ざされていて、洗いにくいこと甚だしい。ベビーバスの中で何とか肉の襞を分けて根元を洗うけれど、やはり洗い残しがあって、それが悪さをしているのかも知れない。

 そして第二の要因は彼の吐き戻し癖である。年中二日酔いばかりしている父親の悪習を踏襲しているのか知らん、我が子は生まれてこの方ミルクを飲む度に、人の見ていないスキを突くようにゲーと吐き戻す。もしかするとキレイに拭き取ったつもりでも、その吐き戻されたミルクがむちむちの頸に回っているのやも知れない。

 こうして私たち夫婦は考え得る要因を一個ずつ潰していくことにしたのであるが、果たして戦局はそう簡単には覆らない。ただでさへ爛れている頸の皮膚を、キレイにするからと言ってゴシゴシとやるわけにはいかないし、慢性的な寝不足のみぎり、夜半に起こるサイレント吐き戻しに直ぐと対応できるわけもない。

 一週間に一度小児医院へ通ううちに、最弱であった塗り薬は一段、また一段と強力なものになってゆく。やはりステロイドは目覚ましい威力を発揮するゲームチェンジャーであったが、薬剤師のおじさんに「薄くね、薄く」と心配そうに念をおされると、どうしてそれも諸刃の剣のような気がしてしまう。

 塗っては吐き、拭いては塗ってを繰り返す一進一退の攻防は約二ヶ月におよび、三番目の強さの塗り薬でようやく戦況は好天の兆しを見せ始めたのであった。

育児漫遊録(35) 頸は燃えているか? Ⅰ

 生まれてこの方、鉗子で引っ張られた痕こそ痛々しかったけれど、あっちこっちがむっちりむちむちで、これぞ健康優良児と思い込んでいた親馬鹿は電撃的に打ち砕かれたのであった。

 「頸の方がちょっとアレかなぁ。」

 まだ頸もすわらない時分であったか、我が子の便秘が気になって受診した小児医院で「そっちよりこっちの方が心配」であると指摘された我が子の頸は、ほんのり赤く色づいていた。

 毎日風呂へ入れて、頸もちゃんと洗っていた「つもり」だったにも拘わらず、何となく赤くなってきたことにはもちろん気づいていた。ただ入浴におけるまさにネックは、彼のネックがあまりにむちむちしているため、どこまで指を突っ込んでよいものかと躊躇われるところにあった。

 炎症を抑える一番弱い塗り薬をもらって、その晩から早速せっせと塗り始める。一日一度であった風呂も朝と晩と、妻と手分けして日に二度浸からせて頸を清潔に保つ試みがはじまったのであるが、頸の容態はみるみる悪化の一途を辿ったのである。

 こんなに念を入れて洗っているのに、なぜ赤みの侵攻は止まらないのか・・・。所々に発疹が出来て、中にはそれが爛れて汁気が出ているものまであるし、この間受診した時には何でもなかったところまでもが炎症によってじわじわと領土化されている始末。

 それでも彼は痛がりもせず痒がりもせず、二日にいっぺんの割で盛大に宿便を解消しては、むちむちの顎下に患部をひた隠しにして完爾と笑っている。親にはいよいよ余裕がないというのに、何という豪胆さであろうか。

 我が子の頸は燃えていた。

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盆栽と暮らす(13) ちょっと見ぬ間に

 厳寒期と盛夏は、とてもじゃないけれど盆栽鋏を持つ手も鈍ります。

 このところは日に三度の水やりも、その都度大汗をかく始末ですから、一鉢ごとに目をやって手を掛けるなんて余裕もありません。

 小さい鉢は十把一絡げにして庭木の下へ避難させ、酷烈な直射日光を中てないようにはしているものの、中には葉っぱが所々灼けてしまったものもちらほら。この分ですと、もしかするとハウスが無くても南方系のブーゲンビレアなり、ハマボウなりの樹種をこの東北で育てられる日も近いのではないかと思う次第ですが、ご丁寧に冬はちゃあんと寒いそうで。

 それにしても元気なのは草であります。

 一体私は何を育てているのかしらと思ってしまうほど、暑さにかまけてちょっと見ぬ間に鉢の樹の下からありとあらゆる草が繁茂している・・・。中には肝心の樹高よりも丈高く伸び出してしまった草もあって、およそこうなると折角演出しようとした「デカイ樹感」も台無しと言ったところです。



 したたかに根を張る草と、制約ありありの環境下でガンバル樹と。どちらがエライというわけではありませんが、人間が忽ちコロリといってしまうような場所であろうと、植物というものは立派に生存している。これは朝ドラで万ちゃんが力説するとおりであります。

 鉢から一本伸び出したヒメジヨンの先端がくにゃりと曲がる。さっきやったと思ったのに、どうやらもう水切れがしてしまったようです。コップの水をグイとあおって、残暑の庭に出て行く昼下がり。

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作文の時間(17) 読書感想文はムズイ? 後編


 自分の〈読み〉を展開することとは、作品に新たな息吹を与える、謂わば二次創作的な色合いさへもつものであります。

 ありきたりな「読書感想文」に散見される「すごかった」「びっくりした」「おもしろかった」も結局、何がどのような点で超越していたところが「すごかった」のか、如何なるコンテクストを裏切ったところに「びっくりしたのか」、人物の言動に胚胎されたどういうテイストの意味合いが「おもしろかった」のか・・・「感想」を煎じ詰めればそれは立派な個人の〈読み〉なのではないか、と私は思うのです。

 それ故に「読書感想文」もとい作文を子供達にさせる側としては常に、「すごかった」「おもしろかった」「びっくりした」の絶えず向こう側を志向し、彼らにそれを思考させるように仕向けなければならないのです。

 さりながら、この度「課題図書」のラインナップを拝見したわけですが、なるほど私の知らない最近の児童書籍が並ぶ中に、河川の歴史を繙く説明文的なジャンルの書籍まで含まれているのには驚いてしまいました。

 もちろんそれは中学生向けの課題図書であったわけですが、歴とした説明文を読み込んで「感想」を書け、とはなかなかどうして高度なことが要求されていると感じました。説明文で感想・・・ということをつらつら思っていると「それって、書評じゃん。」という結論に行き着いてしまうわけで、大学生に書かせて四苦八苦するものと格闘させられる現代の中学生って大変だなぁ、と責任感の欠落した「感想」を抱いた次第でした。

 それは寧ろ、読書感想文でよく言われる「自分に引きつけて書く」を通り越して、より広い視野で自分の地域と河川のつながりであるとか、世界が晒されている地球環境の変動といった問題と絡めて考えていかないことには、規定の枚数を達成することさへムズカシイのではないかと思います。

 折角の良書であるにも拘わらず、読書感想文が一向に進まないばっかりに「こんな本、二度と御免だぜ」となってしまっては、本に親しむ一環としての本懐が欠落してしまうというもの。やはり課題図書は、私なりに申せば〈読み〉の多様性が担保されたテクストにしくはありません。

 夏休みの終わりに、取り敢えず遅まきながら私がおすすめする読書感想文向けのテクストをご紹介して、結びにかえさせていただく次第であります。

 川上弘美「神様」(中公文庫)
 梨木香歩西の魔女が死んだ」(新潮文庫)