かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

蝸牛独読(2) 傷と癒しをめぐって

 NHKの朝ドラ「カムカムエブリバディ」を〈読む〉試みの、第二弾としてお送り致します。 

二、るいと英語
 この物語の中で最も陰影深く語り出されるのが、安子と稔の娘「るい」でしょう。父親の顔を知らない彼女は幼少期に母安子と決別し、長じて間もなく父方の家と縁を切る覚悟で岡山を飛び出し、単身大阪に移ります。

 彼女が幼少期の事故で受けた額の傷は、様々な誤解も手伝ってのことではありますが、母安子との断絶を物語る徴(しるし)として、若い彼女に大きな影を落とします。傷があることで就職に失敗したり、好意を持った男性に距離を置かれる苦い経験は、直接的ではないにしろ、自分を裏切った(と思われた)母親に対する嫌悪や拒絶を強化したと考えられます。そして、こうした傷にまつわる負の複合感情が、母親は勿論のこと、母親を強く想起させるものとしてあった「英語」との懸隔を用意した点も留意すべきポイントと言えるでしょう。

 そんな「るい」は元々「英語」の幼児教育を受けて育った、といっても過言ではありませんし、そもそも名前の由来が、かの「ルイ・アームストロング」から来ている点からし英語圏とのつながりは浅からぬものとしてあります。母親が主体的に英語を学ぶ様子を見ていた子供が、その姿勢に倣う(習う)のは当然のことで、なかなかアブナっかしい行動が多くて視聴者をヒヤヒヤさせた安子ですが、こと幼児教育の点に於いては評価されるところが大きいのではないでしょうか。
 
 しかしながら、幼少期の記憶として不可分に結びついている母親と「英語」が、長じて後のるいにとっては当然触れることの憚られる心的な傷口であり、まさに無意識的に抑圧されるレベルのものであったことは、はじめて錠一郎の「サニーサイド」を耳にした折、母親との日々がフラッシュバックされて、動揺を隠せなかった彼女の様子にも窺うことが出来ます。

 さはれ、そんな「るい」にとって、母親を再び受容してゆく物語は、彼女が「英語」との親密さを取り戻してゆく物語と表裏のものとして存在するのです。英語を再び勉強するという試みは、遠巻きに自らの心の傷口へアプローチしてゆく試みであり、それは不可避的に母にまつわる磁場へと身を寄せていく試みでもあったはずです。ですが、そうしたアプローチを抜きにしては、捨てて来た過去に向き合うことも困難であり、嫌悪し拒絶した母親を再び受容することもままならなかったことでしょう。

 「I hate you.」から「I love you.」へ。「英語」と共に拒絶した母は、「英語」によって再び迎え入れられ、ここに「るい」の心の傷口はようやくうめられることになるのです。晩年の彼女が隠していたオデコをすっかり出していたシーンも、そうした意味では傷を傷として受け容れ、それを癒すことが完了した証として読めるやもしれません。

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些事放談(2) ココロと体の健康診断

 ワークショップだとか、きららかなるイベント毎にはとかく尻込みする私であるが、選挙とか町の健康診断だとか公の行事には、なぜか大手を振ってでかけてゆく。何がそんなに面白いのかは、我ながら不明であるが、たぶんあの、次、次・・・とシステマティックに捌かれる感覚がひとえに新鮮だと云う理由で好きなのだろう。

 それはふだん、そうしたシステムの中にいないことの証左でしかないのだけれど、カフカ的な機械の中に取り込まれる快感は、誰しもが密やかな欲望として胚胎しているものなのではなかろうか。

 と、私はそんな欲望を語りたくて稿を起こしたのではないのだった。私はただ我が町の健康診断の一幕という些事について語ろうと欲したに過ぎないのである。

 わが町の健康診断は、いわゆる「おんつぁん」とか「ばんつぁん」が主であるからして、時に様々なイレギュラーも起きる。血圧を図るために、床のカゴに上着を置こうとしたら、どこからともなく歩いてきた「おんつぁん」にカゴごとドリブルされたり、突然自分の健康が心配になった「ばんつぁん」が、血を採っている真っ最中の人に語りかけたり、そんなことの枚挙にいとまがないのである。

 問診の先生は、今年も同じ。ワックスで頭をツンツンさせてイケイケなおじいちゃん先生なのであるが、今年は五本指靴下の二番目に穴が開いていて、それがちょうど順番につめて座る待合席の塩梅で目に飛び込んできたのである。後から来て件の席へ座った妻に、そっと「アレ、くづした、見でみろっちゃや」と耳打ちしていると、私の右隣に座っていたおばちゃんが、堪えかねたようにクスクスと笑い出した。

 きっと、私より先の順番で待合席に着いた折りに、まじまじと見ていたのだろう。なにせ、わざわざ履いてきた外靴をサンダルに履き替えているのに、そのサンダルすら穴あきソックスの下敷きにしているものだから、これまた見てくれと言わんばかりなのである。

 おばちゃんにつられて、私も腹のこそばゆいのに堪えかね、くつくつと笑い出してしまったわけであるが、見ず知らずのおばちゃんとゆくりなしに共通の話題で破顔一笑したということが、不思議とのびのびした気分を連れてきたのであった。

 いや、もしかするとあの老先生は、あえてあんなパフォーマンスをすることで、検診に来たわれわれ町民の緊張を解し、うち解けた笑いを提供することでココロの健康まで慮ってくれていたのではあるまいか、というのは私の考えすぎであろうか。
 

 

塾生心得 「効率厨」のすゝめ 後編

 効率重視、これを日常の人間関係だとか、趣味において追求してしまうと、たちまち友達をなくしたり、メンドウの中にこそ存在していた面白みが失われたり、何かと弊害が多いものです。

 しかしながら、ことお勉強に関しては話は別です。学生でいられる時間というものは、長い人生のうちのほんの一時。その間に脳は激烈に発達するし、あらゆる知識をスポンジのように吸収しうる、まさにゴールデンタイムをいたずらに「非効率的学習」に費やすなんて、実にもったいないことではありませんか。

 昔から何とかと何とかは「量より質」という言葉をよく言いますが、それは勉強にもそのまま当てはまります。睡魔と闘いつつ「自主勉ノート」に英単語を写経した三時間よりも、単語帳を作って今日学校で習った文法事項を確認して、練習問題を解いて、自分の誤答を解決する一時間の方が、よっぽど高い学習効果が得られるのは言うまでもありません。

 また、ここでもう一つ忘れてならないのが、ずばり学習する「目標の明確化」です。みなさんはその日の勉強をはじめる前に、「今日はこれを攻略したい!」という目標を立てているでしょうか? これがあるのと、ないのでは大違い。行き当たりばったりに、アレをやって次にコレもやって、としていると結局のところ、雑多な勉強になってしまって、せっかく覚えたことの整理が付きにくくなってしまうのです。学校の授業で、一時間毎に先生が目標を設定するのも、まさにこのためと言えるでしょう。(え? そんなこと、先生がやっているのを見たことがない? 至急、私に相談するように。)

 だからこそ、まず第一に自分が勉強する今日の目標を設定し、そして次にそれを達成するために最も効率的な手段を考えるのです。ゆめゆめ、「書き取りをしたいから漢字にしようか、英単語にしようか」なんて迷い箸はしないように。大事なのは手段と目的を取り違えないことであり、勉強している間は常に自分の脳味噌がフルで何かを考えたり、新しい工夫を模索するような、魅力的な攻略目標を設定することに尽きるのです。

 そして、眠いと感じたら十分でも十五分でも眠って、ヒートアップした頭を休めてやり、宵っ張りはしないことです。学生の時分よく耳にする「おれ、二時、三時まで勉強したからさぁ」なんて台詞や、学習時間の「量」に由来する自信とは金輪際オサラバしましょう。そんなのはライバルに対するコケオドシであって、自分が非効率的な学習をしていることの、恥ずべき発表でしかないのです。

 以上述べてきた通り、勉強の「質」を上げるものとは、ムダを排した効率的な学習であり、明確化された学習目標を如何に攻略するかについて、自分で最適解を捜すことこそが、結果的にみなさんの思考力を鍛え上げるのです。塾生諸君はよろしく効率重視の学習にシフトして、己が青春の貴重な時間をさらに値千金なものにしてほしい、と願うばかりです。いざススメ、効率の虫!

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塾生心得 「効率厨」のすゝめ 前編

 みなさんは「効率厨」という言葉をご存じでしょうか。これは主にオンラインゲームなどのマルチプレイにおいて、最大級の効率を求めようとするあまり、他のプレーヤーの顰蹙を買う類いの人々を指す用語です。ゲームに精神の個室を求める私は、三十年来のぼっちプレイを善しとするわけで、実際にこうした類いの方に出会ったことはないのですが、まあその気持ちも分からないことはありません。

 クエストの周回効率をあげたり、経験値獲得の効率化を図ることは、ゲーム攻略という目的を達成する有効な手段であり、たいへんにスマートなやり方に違いありません。しかしながら、これを人に押しつけるというのは、ゲーマーとして如何なものか。そぞろ歩きのようにゲームを楽しみたい人に、効率重視という偏った価値観を押しつけるのはかなり酷な話です。

 さて、と話頭を転じるに及び、まずは私が「効率厨」という用語に思い至った経緯を語らねばなりますまい。それは先日私がある中学生の「自主勉帳」を見て度肝を抜かれたことがきっかけでした。見開きのノートをびっしり埋め尽くした英単語、これを書いた本人はやってやったぜ的なくったくのない笑顔で「これ、めっちゃ大変でした!」と言うものだから、流石に私もご苦労様としか言えない。すると勝手にヒーローインタビューをし出した彼が、どうして聞き捨てならないことを言ったのです。

 「なんか、もう最後の方とか? 何の英単語書いてンだか分かんないし、意識モーローとするし(笑)」これは最早勉強ではありません。写経です。書いているという意識をなくすまで経典を書き写し、そこに仏様の心を感じるのが写経だとすれば、勉強とはまさにその彼岸にあるものなのです。そんなにして英語の心を感じたいのであれば、流行り病が収まった後でアメリカへ行くなりしたほうがよっぽど良いわけで。

 つまるところ勉強しているはずの自分が、何を書いているのか分からなくなった時点で、学び的にはゲームオーバーなのです。そして何より、そもそもこんな非効率的学習法が令和の世にまだ生き残っていたことに、私はたいへん当惑してしまったものでした。(次回へ続く。)

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些事放談(1) 選挙カー雑感

 市議会議員選挙だか何だかしらないけれど、やたらめったら選挙カーが街中を走リ回っている。よくも衝突したり、対立候補同士で殴り合いの喧嘩にならないものだといつもヘンな感心ばかりさせられる。いや、むしろああして大々的に街中を練り歩くのだったら、出くわした対立候補同士で政策をめぐる激論を闘わせたりしてほしいものであるが、どうせそんな芸当ができる論客はいないのだろう。
 およそ日本の政治家は議論が出来ないのだ。国会答弁しかり、あんなのは子供に見せられない。「聞かれたことには、まず端的に答えるのだよ」と私は子供に教えているのに、その真逆のことを大のオトナが真面目腐った顔してやっているのには心底うんざりさせられる。なるほど、子供がマネしたら大変だから、彼らが学校に行っているお昼をねらってやっているのだろう。これは実にステキな配慮ではないか。
 さりながら、そんなオトナ達が「選挙カー」を乗り回して、何の生産性もない言葉を大音声に垂れ流す風習は何とかならないものだろうか。あれで一体誰を感化したいのだろうか。自分の政治信条や、マニフェストを伝えたいのであれば、選挙新聞であるとか、今のご時世スマートフォンひとつあれば事足りる。それなのにああして自分の名前を連呼することで、一体何に働きかけたいのだろうか。そんなことによって票が動くと考えると、私は空恐ろしくなる。
 そもそも選挙とは自分が信を置ける人物とその言論を推すものであって、宣伝を頑張った者に票を入れるアホの運動会ではなかったはずだ。その点からしてこの国の選挙は倒錯している。
 「ワタクシは、子供達の未来の為に、全力を尽くして頑張りまーす!」と言うのであれば、子供たちが机にかじり付いて勉強する教室の横で、自分の馬鹿さ加減を大声で発表しないがよい。そんな言葉が思いっきり空転していることは、誰よりもこの子供達が知っているのだ。彼らの未来をホントに考えているのだったら、学校だとか吾が学び舎の前をマイクの声粛々と渡ることである。
 少なくとも民主主義を理解しているオトナとして言えることはただひとつ、子供の未来を考えないで目先の利得ばかり追い求める大愚物と「選挙カー」という恥ずべき代物にマイナス一票!

作文の時間(2) 記憶がないってホントですか?

 以前、わが私塾の作文教室で子供たちに、最近行ってきたという「遠足の思い出」を一つ選んで書くよう注文したところ、案の定大半の子たちが例のテンプレ的な無味乾燥レポートを提出してきました。そこでもっと、どれか一つのエピソードを膨らまして「コレだ!」と思った瞬間や実感に焦点を絞って書くよう促したところ、スゴいことを言われました。「虎は見たけれど、それ以上、記憶がありません。だから書けません。」私も大いに面食らってしまったわけでしたが、よくよく考えてみればこれもヘンな話で。
 第一に、この子は先ず以て、そもそもあんまり感銘を受けなかったネタを作文に取りあげている点で、必然的に作文の内容が貧弱にならざるを得なくなっているということが分かります。そして第二に「記憶がない」というのも当然、額面通り受け取って良い言葉であるのか、一度考えてみる必要があるでしょう。
 どこかの政治家じゃないのだから、虎を見たけれどそれ以上の記憶がないというのは、やっぱりおかしい話です。その動きであるとか、フォルムであるとか、「虎を見た瞬間なぜかしら全く別のことを考えてしまっていた」とか、頭の中には何かしらの残滓のようなものはあるはずなのです。となると、そこでエラーが起きてしまうのは、それを出力するところにハードルがあると考えるのが妥当でありましょう。
 では、いったい何が彼らのアウトプットを妨げているのでしょうか。私が思うに、それは頭にあることを言葉という形にする手続きが上手くとれないところにあるのです。これは、テンプレ文型に嵌めて文章を作らねばならない、という縛りのなかで作文を書く子には、特に顕著な傾向であるように思います。
 アウトプットを妨げるいま一つの要因である、語彙力の不足という根本的な問題については、また別の機会にふれるとして、「作文をあのように書かねばならぬ」という固定観念のもとで不自由な思いをしている子には、とにかくこちらから積極的に働きかける必要があります。
 例えば、その時の状況や心境を洗いざらいインタビューして、つぶさに語らせてみた後に、それについて「こうも書けるし、こんな風に言うこともできる」ということを示してやる、というのが有効な手段でありましょう。頭にあることをとりあえず言語化させてみて、それを今度は書き言葉に落とし込んでやることで、子供は「なぁんだ、こんなふうに書けばいいのか」と結構気軽に納得してくれるものです。
 寧ろ、そうして表現のレパートリーをデパートみたいに展示して、気に入ったものを取っ替えひっかえ真似させてみることでしか、あのテンプレ文型から彼らを新たに出発させることは難しいのではないでしょうか。
 ですから私の作文教室のワークシートは、いつも「こんなのどうかな?」のオンパレードであり、あの手この手で例文や語り方を提示しては、今日こそ彼らをクスリと笑かしてやろう、の魂胆で挑んでおるわけなのです。

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蝸牛独読(1)「カムカムエブリバディ」

 〈読む〉こととは、ひとつのテクストを分析し、解釈を生産する試みです。それはテクストに使用された言葉を用いて、新たな意味を生成するクリエイティブな作業である反面、ともすれば恣意的な独りよがりに陥りかねない危険性も孕んでいます。頼るべきは、自分の「面白い!」を皆と共有するに堪うるロジックであり、表現です。
 この「蝸牛独読」(カギュウドクドク)では、文学テクストに限定せず、〈読む〉ことの愉しみを紹介し、それを皆さんと共有して参りたいと思います。如何せん、かたつむりのスピードにはなりますが、どうかそこはひとつご容赦ください。

 最初に取りあげるのは、先日放送終了した朝の連続テレビ小説「カムカムエブリバディ」です。三世代、百年の物語として紡がれたこのドラマは、三人のヒロインによる全く異なるカラーの出し方がまさに出色でありましたが、その通奏低音として伏流する「英語」をめぐる物語が、最終的に三人を結び合わせる鍵となったことは言うまでもありません。
 面白いのは、この「英語」に対するアプローチが三者三様で、それぞれの学びにわれわれが見習うべき特長があることです。何回の連載になるかは未定でありますが、とりあえず今回は「英語」に焦点を絞りながら、〈読み〉を進めていきたいと思います。

一、安子と英語
 安子の場合、彼女にとっての英語は、夫となる稔と心を通わせるための重要なツールであり、それが二人の親密さを担保する機能を果たしたと言えるでしょう。インテリである稔のすすめでラジオ英会話を聞き、そこから彼女の学びがはじまります。なにせ、英語が思いを寄せる人とのつながりを強化しているわけですから、動機付けは抜群ですし、その学びが主体的なものとなるのは自然なことでしょう。
 しかし、そんな夫との死別後に彼女は日本に駐留していたロバートと結ばれることになり渡米。いやはや、これには心底驚きましたが、この大胆な逃走線を彼女に用意したのも、勿論「英語」なのです。
 つまるところ、安子にとっての英語は、心を通わせる人との精神的紐帯を担保するものであったと同時に、彼女の閉塞しかけたかに見えた世界を新たに開く意味合いを持っていたと言えます。これは後年、アニー平川として来日した彼女が、実の孫であるひなたに向けた「英語の勉強を続けなさい、それがあなたを思いもかけないところへ連れて行ってくれる」という台詞からも確認できます。これは外ならぬ安子自身の実体験からにじみ出た言葉でしょう。
 何がともあれ、安子がこのドラマで一番ぶっ飛んだ存在であったことは確かです。しかしながら、安子がそっと娘にまいた「英語」という種こそが、後に「思いもかけない」きっかけで、彼女自身を決別した過去へと連れ戻すことになるとは、誰が想像し得たでしょうか。(次回へ続く)