かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(10) すてきなお母さん 後編

 自分の受験でもないのに、子供に向かって自分も頑張っているのだから、あなたももっと頑張れというのはとんだお門違い。子供という存在が精一杯勉強していることを認め、その上で余計な口出しをせず「見守る」ことに徹しようとするお母さんの姿勢には唯々頭が下がるばかりである。私はそんな「すてきなお母さん」に次のような返事をした。

 「彼は間違いなくみっちり勉強しているし、家にある時ぐらいはせめてその緊張の糸を解してやるべきです。そのためには、おいしいご飯が不可欠であると思います。なにせ、受験期の最大の愉しみといったら、日に三度のご飯を置いて外にないのですから。」と。

 子供が十全なパーソナリティを獲得してゆくためには、外とウチのバランスが整っている必要があると私は考える。子供がウチの外で関わる社会から受ける影響、言い換えれば良いも悪いも含めたストレスを受容する基盤は、まさに家庭環境によって形作られていると言っても過言ではないだろう。

 多かれ少なかれ子供はウチの外部において何らかの刺激を受けて帰宅する。流石に年頃ともなれば、「ちびまる子ちゃん」のようにすぐと家族の誰かに相談とまでは行かないだろうが、今日学校であった話を聞いてほしかったり、何をか言わずともご飯を出してもらったり、形は違えど子供は(いや、オトナだってそうだろうが)そこで癒やしを得ているのである。そしてこの癒やしこそが、また明日、新たに受けるであろう刺激に対して柔軟に対応するための弾力性を担保しているのだ。

 以上の話を踏まえて今一度「すてきなお母さん」とは何だろう。それは、子供をひとりの独立した人格として尊重しうる人である。そしてそれは、子供に癒やしの場を提供する取り換えのきかないサポーターであり、ゆめゆめコーチなどではない。ウチの外での子供の頑張りを認め、そして「おいしいごはん」によって言葉の要らない愛を与えうる人こそが「すてきなお母さん」その人なのである。
 

教育雑記帳(9) すてきなお母さん 前編

 教育について何をか語ろうとする際には、やはりどちらかと言えば、教員の問題であるとか、教育行政の非合理性をこき下ろしたり、ディスったりする方が仕事もラクである。だがこの間、妻に「ディスってばかりいないで、少しは褒めることをしたらよろしい」と至極もっともなことを言われた。そんなわけで、おずおずとこんなタイトルを掲げてみたのであるが、さて「すてきなお母さん」とは何だろう。

 うわーっ、と思う保護者の話ならなんぼでも書けるのだけれど、今日はディスらないという縛りがあるから、この逆風に抗って私は何をか述べねばならない。

 「すてきなお母さんは、おいしいご飯を作ってくれる。」どうだろうか、実に陳腐な答えであって、われながら大変に恥ずかしい。しかしながら、これはこの間、わが門下生のお母さんから相談を受けた際に、その認識を新たにさせられたものなのである。

 大学受験も迫ってきた年頃の息子、ガンガン行こうぜタイプの進学校で朝から晩まで揉まれて帰ってくる。疲労困憊で夕食の席につき、それから自分の勉強をして、幾分かの息抜きをして晩は死んだように睡る。そんな息子の姿を目の当たりにしたお母さんは、私に次のように打ち明ける。

 学校の先生からは保護者会においても、もっと頑張れ、と子供を激励してくれるように言われているけれど、こんなに張り詰めて帰宅してくる自分の子に「もっと頑張れ」なんて言えないし、年頃も年頃だからそんな事を言った日にはケンカになってしまう。だから自分が出来ることは見守ることしかないのかと思って。

 それを聞いて私は、すてきだなぁ、と思ったのである。大事なのはまず以て、子供との距離の取り方である。この距離がうまく取れないことには、どれが子供の意志で、どれが親のそれであるのか分からなくなった挙げ句、まさに親子共倒れの事態となってしまう。自分の子供をひとつの独立した存在として見なせるか否かが「子離れ」出来ている「すてきなお母さん」の第一条件なのではないだろうか。(後編につづく)

作文の時間(4) ウソつきのメソッド

1.ウソをついてもイイですか? 

 私たちは嘘を付いてはいけない、と教えられて育ちます。そりゃそうです。子供たちが学校で嘘のスキルばかり磨いた日には、将来何を信じてよいのだか分からない世の中が到来して、猛烈な社会不安の嵐が吹き荒れることでしょう。

 しかし、と私はあえて申しましょう。作文を書くにあたってウソにばかり配慮して怯えていては、これまた誰にも顧みられることのない国語教育の廃棄物がまた一つ増えるばかりです。だからといって、「道端で百万円拾った。」とか「動物園の虎が隣の檻の兎を捕食しているのを見た!」とか根も葉もない真っ赤な嘘を書けと申しているわけではありませんので悪しからず。

2.ウソが紡ぐステキな物語

 では、作文における「ウソ」の効用とはなんでしょうか。それは言うなればハンバーグのつなぎみたいなものかもしれません。・・・失礼、一周回って表現が抽象的になりました。私が言うところの作文における「ウソ」とは、書かれたものをひとつの「物語」として再構築する語りを指すものです。この語りこそが、点としてある一見無味乾燥な事象と事象とを柔軟につなぎ合わせることで、そこに「物語」を立ち上げるのではないでしょうか。

 たとえば、遠足の作文を書けと言われて、自分は「とにかく疲れた!」ということをメインに書きたい、と思ったとします。つまりは、自分がこんなにも疲れるに至った物語を作ろうと思えば、「前日愉しみすぎて睡眠不足になった」とか「集合場所が分からなくなって思いっきり走った」「すごく焦ったので精神的にも参った!」など、ある一定の方向性を持たせた個々の出来事を効果的に配置したり、特定の部分を強調する語りを行うことで、読み手はちゃんとそこに「物語」をくみ取ってくれます。

3. 語りは騙り

 だれが一個人のその日の活動報告を読みたいと思うでしょうか。事実の単なるレポートではなしに、それが物語として提示されることによって、その作文には多かれ少なかれ普遍的な価値が与えられます。それが物語であるからこそ、人は一個人の書いた作文にゆかしさを抱き、「ちょっと、読んでみようかしら」という気にもなるのです。

 たとえ、少しくらい語りによって事実が自分の認識と違うように見えてきたとしても大丈夫。言葉とはそもそも、今ここにないものを表象するツールであり、それを用いた如何なる語りもまた多かれ少なかれ語り/騙り(ウソ)の要素を孕んでいるのですから、いまさら何を気にする必要がありましょう?

4.「へぇ」よりも「ほぉ」を

 一つの対象について百人が語れば、そこに百通りの物語が出来てしまうように、私たちは自分の言葉を使ってほかの誰にも語れないものを語ればよいのです。作文の内容について言質を取られることなど、まずありません。

 ですから「ウソ」という語りのスパイスをほどよく効かせて、読み手を「へぇ」じゃなくて「ほほぉ」と唸らせる作文が書けたら、それはとても素晴らしいことではありませんか。教員をしていた頃の私が、ちょっとやそっと拙くてあろうと、そんな作文にこそ高評価を与えていたのは言うまでもありません。

盆・再考 持続可能な趣味ですか?

 長く付き合っている樹でも、ある朝クリアな頭で眺めた途端「あ、この枝いらねぇじゃん」となることがよくある。人間の美的センスなんてものは、ずいぶん流動的で時間と共に移ろったり戻ってきたりするものらしい。

 さて、災難であるのは樹の方である。よく言えば美的センス、悪く言えばそん時の気分とか、マイブームやなにかで、せっかく保ってきた枝を落とされてしまうのだから堪ったものではない。

 だからこれを落とす方も流石に、いくぶんか申し訳ない気分になるのだが「いや、このままの姿のお前を愛せない!」なんて、世にも恐ろしい理由から強(狂)行手段に出る。盆栽愛好家とはこの点に於いて究極のエゴイストなのである。

 さはれ、ここからが盆栽愛好家の面目躍如(?)である。樹の方をそっちのけにして、何やら切り落とした枝を大事そうに抱えて、矯めつ眇めつ。これではモノホンのヘンタイであるが、しばし待たれよ。当人、再び鋏を取り出しまして、その剪定枝をチョキチョキ。

 いやいや、これは「わくわくさん」に非ず。切り落としたのみならず、それを四分五裂にする所業の向かうところは、まさかのプランター。怪しげな白い粉を切り口にまぶして土壌に挿してゆく姿のしおらしさよ。
 

挿し木
 お気に入りの樹を剪定していると、ついついやってしまう。家人にはもう鉢を増やすなと言われるけれど、切った枝がしのびなくて、取り敢えず挿してしまう自分がいる。
 盆栽は増やすにも金のかからない趣味なのだ、と今日も家人をなだめすかしつつ、そしてまたせっせと枝を挿す。(「盆・歳時記」より引用)


 今日も鋏んだ数だけ、鉢が増える。これは最早持続可能どころの騒ぎではない。増やした以上はこれもまた、ひとつの命である。持続可能か否かなのではなくて、持続させねばならぬ、という根っからの倫理が盆栽愛好家の底流には流れているのだ。

軍隊学校之記(7) イモとガリバー

 そういえばうちの学校にはもうひとつ軍隊が常駐していました。向こうはこっちを「イモ」とか「ガリ勉」と呼び、こっちは向こうを「女ガリバー」とか「アッコさん」と揶揄する間柄でした。彼女たちは新しくて立派な方の体育館を根城にしていて、朝昼晩にわたりベチン、ベチンとバレーボールを叩いて生活していました。

 こちとら体育の時間を除いて移動教室などというものもなく、ほとんど一日教室へ軟禁状態。そんなわけですから、せいぜい出くわすのは自販機の前くらいで、およそハートフルな交流なんてものもありません。

 しかし年に一度、この両軍隊が相まみえる機会がありました。県総体の決勝はマンネリのカードで、仙台育英が性懲りもなくやられにくる。私たちが駆り出されるのは、このゲームの応援で、なぜそんな役回りになるかというと、ひとえに扱いやすいからで…。この軍隊は世紀末風のチェーンを腰から垂らしておらぬし、頭もツンツンしていないし、教官の命令には絶対に服従であるから、単語帳片手にバスへ乗り込んでお利口さんに県立体育館へ輸送されてゆくのです。

 アタックが成功した時、相手方のミスで得点した時、ブロックが決まった時、その他様々な応援アクションがあるのですが、日ごろから猛烈な量の暗記をさせられているものだから、そんなのはお手の物。試合の前日、コロリと態度を変えたバレー部員に教え込まれた通り応援歌を熱唱したり、真顔でジャンプしたりする。つまりイジョーな奴らがイジョーな奴らの応援をしているわけなのです。さはれその分授業はないし、どうせ勝つ試合を見に行くのだし、どちらかと言えば気楽なものだったことは確かです。

 勝って当たり前。バレーをするため、将来バレーで食っていくためにこの人々は全国津々浦々から集められ、親元を離れて寮に入ったり、下宿などしながら勝負の世界に生きている。多感な青春の貴重な三年間を捧げてこの退っ引きならないところで戦っているという点において、水と油みたいな二つの軍隊は少うし通ずるところがあったのやも知れません。

 「イモ」はせっせと根蔓を伸ばし、「ガリバー」は一センチでも高くと伸び上がる。生半可なことは一切彼らの栄養にならなかったこともまた、どうやら確かなようです。

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教育雑記帳(7) 帰ったら何する?

 「ぼくねぇ、帰ったらユーチューブみるんだ」と幼稚園児が言う時代になった。確かにそれについて否定するわけではないのだが、彼の台詞は次のように続くのである。

 「寝るまでみてるよ。あとね、お休みの日はねぇ、ずっとみてる」なるほど休日の過ごし方は人それぞれであり、一日ユーチューブを視聴してはいけないという法はない。しかしながら、どうにも私にはこんな幼稚園児や、小学生が一日中画面を見つめている光景が、空恐ろしくてならないのである。如何に彼らが有意義なものをそこから受容していたとしても、彼らはそれをどこかにアウトプットする場面はあるのだろうか。

 子供のなりたい職業欄に「ユーチューバー」なるものが食い込むのは、結局彼らがユーチューブという世界で情報を摂取し、それを同じ場所において還元しようとする再生産の試みでしかないのだ。それは無理もないことであろうし、止めようにも止める手段のないことである。

 私が心配しているのは、この閉じた循環を彼らが志向するあまり、その世界の〈外〉でものを考えたり、他者と交わったり、そこで何かを表現する手立てがいよいよ痩せて貧相なものになりやしないか、というところなのだ。

 われわれの社会は、少なからず人々の知恵や努力の還元によって成り立っている。大学で身につけた学問しかり、手に付けた職業、芸術しかり、そうしたスキルを少しずつ皆で持ち寄ることで社会という土壌は耕されてきたはずである。そこへ来て、いざ未来を担う彼らに〈内〉へ引き籠もられた日には堪らないのである。

 だからこそ子供たちには、ひとつでも多くの〈外〉を知ってもらう必要があるのではないだろうか。それは、一日中スマホの画面にかじり付く子に、それでないものの面白さ、価値観を提示する試みであると言い換えることが出来るだろう。そしてこれは生身の他者という存在を抜きにしては語れない。

 何も、ユーチューブばかり見るなと言っているのではない。ただ忘れてほしくないのはその狭隘な画面の〈外〉に、救いの手を必要としていたり、素敵なインスピレーションを触発してくれる誰かがいるやも知れないということなのである。もちろん、これは子供に限った問題ではない。バーチャルの世界に、結局のところ他者は不在なのである。

 あまつさえ人と人の接触が憚られる今であればこそ、なおさら私たちは他者とかかわる時のナマな感覚を失ってはならないのだ。こんなことを考えてしまうのは、私がアナログな人間だからなのだろうか。

作文の時間(3) 見切り発車でイイですか?

1.なぜ書けなくなるのか

 「見る前に飛べ」というタイトルの小説がありますが、作文を書くにあたってけっこう多いのがこのタイプ。そんな子に限って、説明も途中に「もう書いてイイの?」なんて、やたら意気込んでいる。だから、それならひとつやってみろという具合で「ええ、どうぞ」と言ってあげると、すごい勢いで書き始めるのです。

 全体の展開も何も見通さないまま、「きのう、ぼくは」とお馴染みのフレーズでスタートした後は、案の上、二段落目の二行目「すごく、おもしろかったです。」で筆がびたりと止まって、虚ろな目が記憶の森を彷徨っているご様子。事故現場へ急行した私が「どうしましたか?」と尋ねると「何書けばいいかワカンナイ」と言うから、「うーん、ぼくも、ワカンナイなぁ(笑)」ということになります。

 もうお分かりの通り、この子の失策は全体の構成を見る前にゴール目指して飛んでしまった、見切り発車にあります。ゴールに至るまでのプランがないからこそ、途中で推進力を失って墜落してしまうのです。

2.大事なのはネタの仕込み

 このように、世の作文嫌いさんたちの大半は、書きながら困っているのではないでしょうか。こうなってしまうと、ここまで書いたネタと、無理矢理絞り出した別のネタとの間に、いかんともし難いちぐはぐ感が生じることは避けられません。それはあたかも、木に竹を接いだ不自然さであり、お客に厳しい接客業よろしく、読み手を遠ざける要因にしかなり得ないのです。読んでくれる人はいつだって「お客様」であり、彼らを「ほほぉ!」と言わせないことには、せっかく言葉を紡いで何かを表現する甲斐がありません。

 ですから作文を書くときは、必ず事前に配置するネタの順序を考え、最もスポットライトを当てたい大ネタ(クライマックス)が引き立つように塩梅してやることが肝心なのです。よく学校では、そうした構成を起承転結として教えますが、これでは些か抽象的ですし、子供が腑に落ちるようかみ砕くだけで小一時間を要してしまいます。

3.お話を作るように書く

 それならば「お話をつくるように書くのだ」と切り出して、その筋書きとしてのネタの配置と、オチのつけかたを練るという仕込みをきっちりしてやった方が、よっぽど書きやすいし、産みの苦しみもまた少ないはずです。例えばワークシートに洗いざらいネタを思いつくだけ書かせるだけでも、そこから自然に子供は「これだ!」というネタと、その組み立て方を見つける選定作業に入ってくれるものです。

 「見る前に飛べ」でなくて「書く前に決めろ」。作文とはそのだいたいの着地点が、書き手に見えているものでなければならない、と私は思うのです。およその着地点が定まっているからこそ、われわれは言葉の世界で存分に飛躍が出来るのです。着地失敗、複雑骨折の腰折れ作文よりも、小味であるけれどもう一度読み返したくなる作文は、いつも美しく着地がまとめられているものなのです。

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