かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

盆人漫録(15) 盆栽人の粋

 近隣の盆栽会の顔なじみが尋ねてきてくれるのも、展示会をやる愉しみのひとつであります。

 朋ありて隣町より来る。リポビタンや缶コーヒー、エンゼルパイの差し入れを引っ提げて、陣中見舞いに来てくれます。

 このごろのコロナ流行りのせいで、久しく行き来が絶えていた人がひょっこり顔を出すと、「やぁやぁ、どうもどうも」とはじまる。話のタネはそれこそ展示の数だけあるのだから、そいつをお茶請けにナンボでも喋っていられます。

 だけど、あんまり愛好家の内輪で盛り上っても、肝心の盆栽バージンであるお客さんを萎縮させてしまうというもの。ここのところは、よっぽど注意しなければなりません。

 あれは私がまだ盆栽をはじめて間もない頃、立ち寄ったとある展示会で、おじさま方がメチャメチャ内輪で盛り上がっているところに遭遇してしまったことがありました。その声がわんわん会場に反響するものだから、とうてい展示された作品に集中することなんか出来ません。別に自分の事を言われているわけでもないのに、何だか妙に肩身の狭い思いをしたことを覚えています。

 今でこそ愛好家のこぼれ話に耳を傾けて耳寄りな情報をキャッチしよう、なんて欲も出ては来ましたけれど、出来ることなら心静かに作品に向き合いたいものです。

 そこんところを心得ているのが粋な盆栽人というもので、それまで「ほほほ」「なるほど、そうですか」「私だったら用土は・・・」と談笑していても、展示室の向こうの方で私に「あのぉ、この樹って、何ですか?」とお客さんからお呼びがかかれば、自身はスッと身をひいて「んじゃあ、また」と静かに去って行く。

 こんな盆栽人って粋だなぁ、と私は常々思うのです。そしてやはり粋な盆栽人の樹も、えてして粋なものです。うーん、私のはまだまだそんな水準じゃないし、知り合いの展示会でお茶なんか出されると、ついついおかわりを注がれてエンゼルパイハッピーターンを食ってしまう・・・。

 こりゃあ、まだまだ野暮ってもんですぜ。

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弟子達に与うる記(7) 謝るならば

 教育実習に行った経験がある方ならば、実習日誌を落っことすヤバさは十分にご承知でありましょう。何せこれを完成させて提出しないことには、実習に行ったことにならず、単位も教員免許もおりないのです。

 最終日の打ち上げで、呑むペースを完全に乱した私はグルグル回る世の中に手こずりながら、実習日誌の入ったカバンを自転車のカゴに載せ、まさに酩酊状態で帰宅の途に就いたのでありました。どこをどう通ったのかさへ分かりません。

 ようやく家居に帰り着いて電気を点けたけれど、まだ世の中がぼやぼやしている。不思議に思って目を擦ると眼鏡がない。そして国分寺を出る時には確かにあったはずのカバンもない。

 どこかでひどく転んだと見えて、アンパンマンみたいに腫れ上がった顔で、翌朝学務課に出頭した時の暗澹たる気分は今でも鮮明に覚えています。それから担当教官、学校の各方面に謝罪につぐ謝罪をして、何とか代替措置をとってもらい、留年をまぬがれた私なのでありました。

 今回私が諸君に語った二つの「やっちまった」案件が教えているのは、第一に呑んでも人に迷惑をかけない。第二に、呑んだら自転車に乗らない。そして第三に「やっちまった」と思ったら、誠心誠意謝罪することに尽きます。

 自分に非があると分かったら、ジャンピング土下座をするくらいの勢いで、その「過ち」を引き受けなければなりません。天網恢々疎にして漏らさず、どんなに隠していたって、いつかは必ず露見して、よっぽど酷い報いを受けるものです。

 何でも、聞くところによると私と同日に日誌を落とした者がもう一人あったそうで、その人物は落としたことが分かっていながら、しばらく黙っていたせいで留年する羽目になったのだとか。

 若いみなさんは、これから様々の形で「やっちまった」に遭遇することでしょう。それは誰しも避けては通れぬものなのかも知れません。「過ち」を未然に防ぐ努力は、もちろん大いに結構なのですが、それと同時に私たちは「過ち」が起きてしまった後、自分がどう動くべきかという心構えもしておかなければなりません。

 「やっちまった」。その時、そこに露出するのは、その人の生々しい人間性なのです。塾生のみなさんには、そんな危機にあって、きちんと自分の「やっちまった」を認めて謝れる人間になってほしいと思います。

 そして、くれぐれも政治家のマネだけはしないように。
 

弟子達に与うる記(6) わが失敗録

 この間は酒に関する話をしたから、補足の意味も込めてわが失敗談をしておこうと思います。

 わが学生時代における大失態は二度。そしてそのいずれにも酒がからんでいるわけですから手に負えませぬ。これからを生きる君たちには、私の大失態を教訓に(?)素晴らしい学生ライフを送ってほしいのであります。

 まずは頭をかち割った話から。

 ゼミ終わりの研究室で、へべれけになるまで呑んだ帰り道。人の気の絶えた真夜中の連雀通りを自転車で走っていたら、いつの間にかそのまま眠って、思い切り電信柱に衝突して頭を五六針縫う大けがを負いました。

 「痛て、てて」と起き上がって、だいぶと出血していましたが、そのまま自分の部屋まで自転車をこいで帰り、シャワーで頭の血のりを洗って傷の具合を確認したところ、頭の皮の一部が裂けてぺろりと剥けている。やっちまった。

 こうなると酒も何もあったものではありません。酔いもすっかり醒めて、駆けつけてくれた救急隊や真夜中に頭を縫ってくれた脳神経外科の先生には、ひたすら申し訳なく、とにかく恥ずかしさでいっぱい。やはり、酒を呑んでも人様に迷惑をかけるのは、ルール違反であります。

 そして今ひとつのエピソードは、私の通った大学で、これから教育実習に行く後輩たちがいまだに訓辞されているという、まさに負の遺産の金字塔。

 「実習の最終日には、打ち上げがあります。だけど自分を落っことしても、実習日誌だけは落っことさないように!」

 という強めな注意を、わざわざ二十歳過ぎの大学生がされねばならないのは、何を隠そう実際に実習日誌を落とした大馬鹿野郎があったからに外なりません。(次回へつづく)

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教育雑記帳(24) 両立って可能ですか?

 よくある塾の触れ込みに「勉強と部活の両立をサポートします!」というのがあります。

 地方へ行けばいくほど、そんなニーズが高まるように思うのは、この地に学び舎を営んでいる私だけでしょうか?

 なるほど勉強と部活動の両立は、普通の公立中高に通う学生にとって、この上なく素敵な誘い文句でありましょう。

 部活動も頑張って、勉強も頑張って自分の志望する偏差値高めな進学先に合格する。果たして、そんな願ったり叶ったりって、実際にあるのでしょうか。

 私が思うに、そうした両立が実現するのは限られた成績上位層に過ぎません。

 偏差値が五〇をオーバーする公立高校が、なんと一校しか存在しないこの地域では、どんぐりの背比べをする大半の生徒が、偏差値五〇以下の高校へ進学していきます。

 偏差値五〇を大半の生徒が越えられないということは、結局のところ基礎学力が欠乏したまま、この地域の子供達が進学先を選んでいることを如実に物語っています。

 平日も毎日夜遅くまで部活動に励み、土日も返上しての練習試合。酷いのになると部活動の後にそのままスポーツ少年団の練習へとスライドするところだってあります。

 慢性的に基礎学力を欠乏させた彼らは、いつどこでそれを補うのでしょうか?

 こうした生徒、つまりはこの地域の大半の中高生に「勉強と部活の両立」は、どだい不可能なのであります。可哀想なのは、自分の意思に反して部活動に貴重な時間を簒奪される生徒が一定数存在することです。

 部活動への強制加入制などという時代錯誤な校則は、多様性が尊重されるべき時代にあって、およそ褒めるべきところがありません。やりたい生徒が自己責任で部活動に勤しむ、というのが真っ当な考え方であって、これを強制した時点でそれはスポーツや文化に対する冒涜にしかならないのです。

 「勉強と部活動の両立をサポートします!」

 とてもじゃないけれど、私はそんな無責任なこと、口が裂けても言えません。

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蝸牛独読(5)「くまさぶろう」を読む#2

一、skillful robber

 テクストは冒頭から第一の謎を投げかけて来ます。「どろぼうのめいじん」と紹介されるくまさぶろうでありますが、何と彼は「はじめのころ」「それほど じょうずなどろぼうでは」なかったというのです。

 まず「はじめのころ」とは、いつの状態を指すものなのでしょうか。「どろぼう」を始めたころ? それともテクストの前半部をさすものか、実に曖昧であります。

 テクストを俯瞰すると、くまさぶろうの盗みは前半部の物品を盗んでいる時期と、それから「なんねんか」が経過した後半部の「ひとのこころ」を盗むようになる時期で区分けされます。

 となるとやはり「はじめのころ」と語られる部分が、物品を中心に盗みを働いていた前半の時期に相当すると解釈した方が自然でありましょう。

 では一体、くまさぶろうの盗みの何が、それほど「じょうず」でなかったとされているのでしょうか。

 実際のところ、くまさぶろうの前半部の盗みの手際はどれも鮮やかと言うよりほかありません。砂場遊びに夢中な子供のシャベルや、とこちゃんが食べているコロッケを「すれちがうとき」に盗ってしまう「はやわざ」などは、既にして「どろぼうのめいじん」と呼ばれてもよのではないか、と思えてしまうレベルにすら見えます。


引用
 「はなれているものは すいよせる。おおきなものは ちぢめてとる。どうだい、このうでまえ」くまさぶろうは そういって、「ほっほっほっ」と わらいました。


 この引用箇所で特筆すべきは、彼が一般的(?)「どろぼう」スキルでは飽き足らず、まさに人智を越えた力すら、意のままに発揮している点でありましょう。

 かんちゃんのミニカーは、「はなれたところから」抜き取られ、動物園の象は「ちぢめてとる」。ここまで来ると、最早彼に盗めない物はないと言えるでしょう。なにせ物理法則すら思いのままに飛び越えて、盗みを達成してしまうのですから、これ以上のskillful robber(盗み巧者)は考えられないというレベルにまで、くまさぶろうは達しているということが明らかなのです。

 しかし、そんな彼はこれでもまだ「じょうずなどろぼう」でないのです。つまり、彼が極めた物を盗むにあたってのスキルは、本テクストにおける「じょうずなどろぼう」の基準から外れているのであります。

 では「じょうずなどろぼう」とは、後半部で言うところの「ひとのこころ」を盗める「どろぼう」ということになるのでしょうか? いやいや、ここで判断を下すのは早計でありましょう。

 今度はちょいとばかし、文化人類学の知見を拝借して、くまさぶろうという得体の知れない男を精査してみることと致しましょう。

蝸牛独読(4)「くまさぶろう」を読む#1

 みなさんは『くまさぶろう』という絵本をご存知でしょうか?

 名前のインパクトもさることながら、お話もくまさぶろうのビジュアルも、一度読んだら忘れられない一冊となることは間違いないでしょう。

 では「くまさぶろう」とは一体、何者なのか?

 くまさぶろうは「せかいじゅうに ひとりきりいないくらいの、すばらしい どろぼうのめいじん」であります。お話を通して彼は、その肩書きに相応しい、まさに神業を駆使してあらゆるものを盗み続けます。

 でも、この「どろぼう」、既に私たちが知っている鼠小僧や白波五人男、アルセーヌ・ルパンや怪人二十面相ともだいぶ毛色が違っているのです。それは、クラリス嬢の心を盗んだと言われるルパン三世に先駆けて、バンバン「ひとのこころ」を盗み取る、前代未聞の「どろぼう」と呼ぶほかありません。

 お話を通して、ひたすら盗み続けるくまさぶろう。きっとはじめて読まれた方は、驚かれるに違いありません。そこには彼が盗みをする動機や目的も、彼の実態や内実すらほとんど語られていないのです。

 それでも読む人をして妙に納得させてしまうのが、「くまさぶろう」という不思議なテクストの魔力。そしてそこに、何とかして読んでやろう、という気分を触発せしむるのも良質なるテクストの魅力というもの。

 不定期な連載とはなりますが、あたう限りテクストの醍醐味を損なうことなく、読者のみなさまと共に「くまさぶろう」を読んで参りたいと思います。

 本文の引用は、もり ひさし/ユノセイイチ著『改訂新版 くまさぶろう』(こぐま社)に拠り、引用箇所は「」で表記致します。

盆人漫録(14) 構ってちゃん登場

 もちろん展示を見に来てくださるのは、盆栽愛好家の方々ばかりではありません。そんな方々にこそ盆栽の面白みを発見してほしい、と展示会をやっているわけなのですが、やっぱりどうして、困ったお客さんというのもあります。

 エー、そんな中には随分とエバったお方もありますようで・・・

 「ねぇ、君、君だよ君。」「へぇ、私ですか?」「そうだよ、君しかいないだろう。他に客があるってのかね?」「はぁ、それで、どうかされましたか?」「うむ、でも君じゃないんだよ」「あべこべですね。」「この会にはあべこべじゃなくて、先生ってもんがいるのだろう? ぼくは君じゃなくて先生に質問したいんだよ。」

 ってな感じで、実に店番をしている一愛好家の血圧を朝イチで上げに来る不逞の輩もあります。こんなタイプの方は話をさせてみると、およそこんなことを言われます。

 「うちの庭にサツキがあるんだが、太い枝に元気がなくなって、裂けたり皮が剥けてきたりしているんだ。これはどうやったら治るか、君らの先生に尋ねたいんだが、先生は今日いないのか?」「お客さん、そいつは残念ながら、枯れていますよ。サツキは庭のどこに置かれてますか?」「どこだって? 庭だもの外に決まってるよ。」「だから、外は外でもそこは霜があたったり、陽当たりが悪かったりしませんか?」「え? そんなことを君が聞いてどうしようっていうんだ? ドロボーにでも入る気だろ?」

 と、およそお話にならないので物別れになるのが常なのでありますが、そんな人に限って一度出て行ったのに、また戻ってきて居座ったりするから、たいへんにタチが悪いもので。

 「時に、君たちの会には何人在籍しているんだい?」「十二、三人ほどですが。」「なんだ、そんなもんか。」「月に何回くらい?」「二回です。」「へぇ、そんなもんか。」「(ゴホン)」「ふむ、そんなもんか。」「まだ何も言ってませんけど。」「お客をからかうんじゃない!」

 つまるところこの人は、別に来る気もないのだけど「来ませんか?」と言って欲しいのです。けれど私は先ほどの事があって大いにムカついているから、死んでもそんなことは言わない。だけど、店番交代の時間が重なってやってきた会員の方が不用意に「来ませんか?」というキラーフレーズを言っちゃったものだから、アチャー、と思って聞いていると、

 「イヤだよ。ぼくはそんなにヒマじゃないんだ。」とやっぱりカウンターの憎まれ口が飛んできて、居合わせた一同うんざり。全くもって迷惑な「構ってちゃん」であります。

 こんな時は自分たちが飾った樹でも眺めて、リフレッシュするにしくはありません。なにせ樹は自分から構ってアピールをすることもなければ、出会う人をイラつかせるようなこともしないのですから。

 今シーズンも、あの人がまたやって来たなと思いつつ、来る客は拒まず。それが盆栽文化の発展に数ミリでも寄与するのならばお安いもんだと私は思うのです。(でも、やっぱりムカつくものはムカつきますが笑)