かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

弟子達に与うる記(9)「ウチ」の限界

 塾生諸氏はきっと無縁のことでありましょうが、「いじめ」なるものは「ウチ」の論理がその外側を排除しにかかる、典型的な例であります。

 何らかの特徴を理由に因縁をつけて、その人物を仲間内で疎外する。するとその人物を閉め出した共犯関係にある仲間ウチでは、自然と「オレ達」という(ヘドが出そうな)結びつきが強化されるわけです。

 つまるところ、この場合の彼らは一人の人物をスケープゴートとして繋がりを担保しようとしているわけであり、これは明らかな「オレ達」ファーストの行き過ぎた構図を示していると言えます。

 これはまた、日韓関係で取り沙汰されるヘイトスピーチにおいても同じことで、お互いを排斥し合うことで彼らは、同じ国民であるという「われわれ」意識を強化し、それに酔っているに過ぎません。それが何の解決にもならぬと言うのに・・・。

 このように「オレ達」ファーストを生きる彼らには、彼らしか見えず、彼らが排除した人物の哀しみなど、まるで意に介さない事でしょう。

 「外部がない」状態とは「オレ達」のウチで通用する合意形成に歯止めがきかなくなる危うさと、その影で必ず弱者が排斥される、負の連鎖を生み出します。

 かつてわが国が、日中戦争から太平洋戦争へと突入していった歴史は、まさにこの「外部がなく」どこまでも拡張を続ける「ウチ」の論理が招いた悲劇を今に伝えています。

 改めて諸君に問います。君たちの生きる場所に「外部」はきちんと存在していますか?

 仲間内でばかりつるむな、と言っているわけではないけれど、私は常々諸君には「われわれ」の外側に目を向ける心構えを持っていてほしいのです。

 世の中がヘンな気を起こして、選択を誤りそうになる時、人々は「ウチ」の論理でしか物事を考えなくなる、否、考えられなくなります。全てが「われわれ」の理屈で解釈され、それによれば、しかじかの選択肢へと突き進むしかない!

 となった時に「ちょっと、待てよ。」と言える人間が一定数必要なのです。

 絶対化された「ウチ」の論理は、必ずいつか硬直化し、外部とそこにある弱者を痛めつけます。大事なのは、その不毛な構図を見抜いた人間が、言論という素敵に鋭い針でもって、閉塞した内部に風穴を開けてやることなのです。

 え、何? じゃあ、私はどうなんだって?

 私はひねもすチクチクやっているけど、なかなかどうして埒があかないから、諸君は早く学問を修めて私の援軍に駆けつけたまえ。

弟子達に与うる記(8)「オレ達」の外側

 そこに外部はありますか?

 どうです、なかなかキャッチーな入りでしょう。はい、そこの君、どこかの金貸しのコマーシャルをパクってるとか言わないように。

 私は今日は結構真面目な話をしようとしているのです。っと、そこの君は「真面目」と聞いた途端に帰り支度をはじめた様子だけれど、少しばかり待たれよ。私は弟子である君たちと、そうでない方々とに、大事な話をしようとしているのであります。

 「われわれ」という言葉を使う時、「私たち」はそこに多かれ少なかれ、一つの共同体を想定しています。同じクラスであったり、同じ趣味や思想を共有する人たちであったり、同じ国籍であったり、家族であったり・・・共同体はどこにでも存在し、その数だけ「われわれ」があると言えます。

 それは一向に悪いことではありません。「われわれ」という意識を持つだけで、人はそこに自分の帰属意識、つまりはひとつの居場所を確認し、それによって「ボクはここにいていいんだ」という、かの有名な安らぎを得ることだって出来るでしょう。

 しかし何事も度が過ぎると、ロクなことはありませぬ。「われわれ」意識が強すぎると、もちろん心理的な紐帯はどんどん強化され「オレ達はワンチームだ!」ってな具合になる。それの何が悪いんだ、とツッコまれる方もあるやも知れませんが、ここで留意せねばならぬのが「オレ達」「われわれ」の外側なのです。

 ごく親しい仲間同士でつるんでいる時の愉しさは、だれだって好もしい思い出としてあることでしょう。

 では、この時の経験を思い出してみてください。仲間同士でいる時は、一人だと気が引けるような事も、公共の場で自分たちの話に興じる事も、不思議なくらい平気で出来てしまうものです。これこそ、私たちが一時的に「外部」を忘れて、「オレ達」「われわれ」を満喫している時間であります。

 節度さへ守れるのなら、それは全く問題ではないし、仲間内やその他の共同体で結束を深めるのは構わない。だけど、それが行き過ぎると、その外部には必ず「オレ達」「われわれ」から無意識的に排除せられてしまっている人間がある、ということを忘れてはなりません。(次回へ続く)

蝸牛独読(6)「くまさぶろう」を読む#3

二、孤独なるストレンジャー

 くまさぶろうの「どろぼう」スキルは、前回確認した通り、どうにも人間離れしたところがあります。

 前半部では物を盗み取ることに長けたスキルが、後半部では何と「ひとのこころ」を盗み取るまでに成長(?)しているのです。

 それはいったい、どういうわけなのでしょうか? 絵本だから、お話だから、と言われてしまっては元も子もないのですが、私はあくまでテクストにその答えを求めたいと思います。

 さて「くまさぶろう」という人物は、冒頭から終わりまでずっと一人ぼっちの姿で描かれています。もちろん「どろぼう」ですから、単独でこっそり行動を起こさねばならないわけです。しかし、テクスト中くまさぶろうは一度も、誰とも会話をすることもなければ、誰かと視線を合わせるということもないのです。

 また、そんなくまさぶろうが前半部で盗み取る物を見ても、シャベル、コロッケ、傘に少年のミニカーやぞう、といったようにおよそ一貫性がありません。それはなんとも場当たり的な「どろぼう」に見えますし、そこから彼の所在なさが垣間見えるように思えます。

 このように「まち」に住んでいながら孤立していて、どうにもその場所から浮いている。こうしたスタンスこそが、くまさぶろうの人間離れした力を説明するにあたっての重要な鍵なのではないでしょうか。

 そこで今回借用したいのが〈異人〉という概念であります。文化人類学、ないしは民俗学において〈異人〉は共同体の周縁部に身をおき、時に超常的な力や能力を発揮しながら、共同体内部を活性化する役割を負う存在を指します。

 例えば『三年寝太郎』のように、仕事もしないで日々寝てばかりいる大男が、ある日突然起き出して村の危機を救う話などは、その典型でありましょう。共同体にとって無用と思われた存在が、マーベルのヒーロー的な力を発揮して共同体の危機を救うという話は、みなさんもひとつふたつ聞き覚えがあることかと思います。われわれの知るヒーローやアンチヒーローはいつだって、外からやってくるのです。

 そうして見ると、共同体において浮いた存在であるくまさぶろうの孤独や、彼が持っている人間離れした「どろぼう」のスキルは、まさにこうした〈異人〉と通じるところがあると言えるでしょう。

 ですが、前半部の時点にあって、彼はまだ「いえ」を持っているわけで、完全に共同体の外側にあるとは言い切れません。彼は何と「まち」に定住していたのです。

(引用)
 くまさぶろうは、とうとう やどなしになって、まちなかを うろついていました。


 動物園から「ちぢめて」盗んだぞうが元のサイズに戻った拍子に、彼の「いえ」は木っ端みじんになってしまいます。そこから彼は「やどなし」となって「なんねんか」が経過し、ついに彼は「ひとのこころ」を盗む「どろぼう」へと変化するのです。

 この変化を説明するものこそが「やどなし」、つまりは「まち」に定住し得なくなったくまさぶろうが共同体から放逐されたという事実であり、それによって彼は、一段ギアをあげた〈異人〉としての特質を発揮するところとなったと読めるわけなのです。

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盆人漫録(16) ヒマジンですが何か?

 デパートにおける「何かお探しですか?」的な接客がどうにも苦手な私。

 だからお客さんが樹を見ている間は、さて自分の展示の前で立ち止まってくれるかしら、と横目でお客さんの流れを確認しつつ、自分の作業をするというのが近頃の定番です。

 別に派手な改作をするわけでもなく、日々の手入れの延長を、会場の片隅でやるまでのこと。中にはそれに興味を示して、「私も体験してみてイイですか?」なんて言ってくださるお客さんも出てきました。

 ワークショップと名の付くことには、一生疎いものだと思ってきた私が、こんなところで「なんちゃってワークショップ」を開催しているのだから、人生何が起きるか分からないものです(笑)。

 その日もそんな風に「盆栽への誘い感」を漂わせつつ、展示を鑑賞するお客さんたちの様子を作業越しに眺めていると、何やら面白げなおじさんコンビの軽妙な掛け合いが聞こえてくるではありませんか。

 年の頃は五十代。背格好も顔立ちも、どこから見たってご兄弟と分かるお二人。ネイティブなズーズー弁によるハイスピードな掛け合いは、華麗にまくし立てるイタリア喜劇の弁舌を彷彿とさせるものであります。

 「あらっ! こいづは、これぇ!」「あれや! ただもんでねぇっちゃあー!」「えれごったなやぁ。」「んだ、えれぇごった。」

 何をそんなに感心してらっしゃるのか、そおっと目をやると、お二人は何と私の棚の前で感嘆符「!」を連発しておられるではありませんか!

 あな、うれしや。

 と、作業もそっちのけ、作業をしているフリなんかしながらお二人の品評に耳をすましていると、今度は私の頭の中が疑問符「?」で埋め尽くされていく・・・。

 「こいなの、一発だどわ。」「んだべなぁ、一発でオワリだべなぁ。」

 え、私の樹、何かオワッテルのかしら?

 「だぁれ、今はまだ涼しいげっともさぁ」「んだよな、夏なんて一回で済まねっちゃねや。」

 夏、一回でなくて二度も、何が来るというのか。時を経て少年の日の私を眠れなくした恐怖の大王でもやってくるというのだろうか?

 「こんな、ちゃっこい樹ぃ、すぐにヤラレルわ。」「んだべ、んだべ。」「あいな、大っきな鉢だらばまだいいげっとも、こんなちゃっこいの、すぐに乾ぐに決まってっちゃ。」「んだ、んだ。」「ッつう、事はさぁ・・・」

 ッつう事はどうだと言うのでせうか?

 「ッつう事は、やっぱり」「やっぱりヒマなんだべなぁ!」「んだ、ヒマジンでねぇど、こいなごどやってらんねんだ。こいなごどは!」「すごいっちゃなやぁ、さぞかしヒマなんだべなぁ。」

 と、つくづく感心していらっしゃるけれど、私の複雑な心境たるや、剪っちゃいけない芽まで余計に鋏んだ手許によく表れている始末で。

 ヒマジンと呼ばれても、別に年中ヒマしているわけじゃあ、ないのです。でないと盆栽愛好家は小品大品、専門問わずみんなヒマジンになってしまうわけで。

 愛好家は多かれ少なかれ、樹と一緒にヒマもまた苦心して作っているのではないでしょうか。盆栽を軸に時間が回り始めると、それに合わせて人間も樹に合わせ、鉢の中の土に合わせて息をしはじめるような気がします。

 ヒマジン結構! 盆栽人のバイオリズムは、百年千年を生きる樹に倣っておるのですから。
 
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塾生心得「それって、オフライン?」後編

 勉強において大事なのは知識の量というよりむしろ、知識と知識の繋がりだと私は常々思うのです。

 知識が線状に繋がっていれば、たとえそのうちのどれかを忘れているとしても、知っているところから糸を辿ってその知識を呼び戻すことが出来るのです。これぞまさしく、人間の頭のバックアップ機能と呼べるものではないでしょうか。

 一個一個の知識を精密に学ぶことに長けていても、それらの繋がりが模索されなければ、細切れ状態に分断されたままの知識は、適切に運用されることも難しくなります。そうなると後は、かの忘却曲線との勝負であり、繋がりをもたない「オフラインな知識」は記憶から薄れていくことでしょう。

 知識を孤立させないためには、それを開かれたものにして、「線」、つまりはネットワークで結び合わさねばなりません。

 「引き算と足し算は」「展開と因数分解は」「関数と方程式は」・・・みながら親戚のような存在であり、またはクラスの友人達のようにラインを介して繋がっている。だから片方を忘れても、逆コースからアプローチをすればイイだけじゃないか! こうして見ると「覚えてる/覚えてない」なんて区分け自体が、無意味なように見えてくるものです。

 そんな認識が出来るようになれば、ちょっとやそっとで「ド忘れしてお手上げ」なんてことはなくなるはずなのです。

 ですから知識量を増やしたければ、知識の繋がりを増やすに越したことはないのです。

 私は大学時代「自分にはまだ知識が不足している」との危機感に駆られて、とにかく大量に本を読んだことがありました。これが所謂乱読であります。

 しかし、身の丈に合わないものや、それほど「ゆかし」と思わないけれどガマンして読んだものは、やはりキレイに忘れてしまっているものです。私の知識として活きているのは、時間を置いて何度も線を引きながら読み返したものや、誰かと真剣に内容を議論して、読みを深めた書物から得たものなのです。

 その知識が何をするためのものなのか、どうやって活用すればよいのか、どんな歴史的、思想的背景をもっているものなのか・・・。知識を適切に運用していくためには、そうした本質的理解を通して他の知識との繋がりを構築していくことが必要なのです。

 塾生のみなさんは今一度、自分が覚えたと思っている知識を点検してごらんなさい。それについて自分の言葉で説明出来ますか? ふむ、ちょっとムズカシイとな。

 それって、もしかして、オフラインなのではありませんか?

塾生心得「それって、オフライン?」前編

 通分の習い始めは、まず約分の逆をするところから。今まで分子と分母を同じ数で割っていたのを、今度は分子と分母に同じ数をかける操作が必要になるわけです。

 「約分の逆だ」とすぐに気づく子はきっと、何だよこの間までせっかく約分して小さくしてきたのによぉ、と心の中でうそぶくのでしょうが、そうでない子にとって、これはまるで約分とは関係ない別個の計算になるのです。

 こうなってくると、各人の進みには大きな開きが出てきます。「この間は割ってたのを、かければイイんでしょ♪」の子は、ゲームの上手な人のように新しいゲームやステージに挑んでも、ちょっとチューニングをかえるだけで、すんなり対応出来てしまうのに対し、「また新しい計算を覚えなければ・・・」と途方に暮れる子は、もう既にあれだけ練習した約分すら覚束なくなっている始末です。

 応用が利くか利かないか。この違いは習得済みの知識を使いこなせているか否か、に関わっているのです。一つのゲームに熟達した人が、同系統のゲームにおいてもすぐに本領を発揮できるのは、先のゲームで習得した操作やコツを、次のゲームにちゃんと応用しているからに外なりません。

 応用が出来ない状態とは、基礎的な部分の理解が線で繋がらずに、いまだ点で留まっている状態と言えます。それは言うなれば習得した知識が細かく仕切られた引き出しにしまい込まれているようなものです。

 「足し算は足し算」「約分は約分」「通分は通分」・・・と完全に区分けが成されて厳重にしまい込まれているものだから、いざそれを別の学習に活かそうにも「どこへしまったか分からない」ということになってしまうのです。これでは覚えることばかり増えて、そのバックアップを取ることすら困難になってきてしまいます。

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盆人漫録(15) 盆栽人の粋

 近隣の盆栽会の顔なじみが尋ねてきてくれるのも、展示会をやる愉しみのひとつであります。

 朋ありて隣町より来る。リポビタンや缶コーヒー、エンゼルパイの差し入れを引っ提げて、陣中見舞いに来てくれます。

 このごろのコロナ流行りのせいで、久しく行き来が絶えていた人がひょっこり顔を出すと、「やぁやぁ、どうもどうも」とはじまる。話のタネはそれこそ展示の数だけあるのだから、そいつをお茶請けにナンボでも喋っていられます。

 だけど、あんまり愛好家の内輪で盛り上っても、肝心の盆栽バージンであるお客さんを萎縮させてしまうというもの。ここのところは、よっぽど注意しなければなりません。

 あれは私がまだ盆栽をはじめて間もない頃、立ち寄ったとある展示会で、おじさま方がメチャメチャ内輪で盛り上がっているところに遭遇してしまったことがありました。その声がわんわん会場に反響するものだから、とうてい展示された作品に集中することなんか出来ません。別に自分の事を言われているわけでもないのに、何だか妙に肩身の狭い思いをしたことを覚えています。

 今でこそ愛好家のこぼれ話に耳を傾けて耳寄りな情報をキャッチしよう、なんて欲も出ては来ましたけれど、出来ることなら心静かに作品に向き合いたいものです。

 そこんところを心得ているのが粋な盆栽人というもので、それまで「ほほほ」「なるほど、そうですか」「私だったら用土は・・・」と談笑していても、展示室の向こうの方で私に「あのぉ、この樹って、何ですか?」とお客さんからお呼びがかかれば、自身はスッと身をひいて「んじゃあ、また」と静かに去って行く。

 こんな盆栽人って粋だなぁ、と私は常々思うのです。そしてやはり粋な盆栽人の樹も、えてして粋なものです。うーん、私のはまだまだそんな水準じゃないし、知り合いの展示会でお茶なんか出されると、ついついおかわりを注がれてエンゼルパイハッピーターンを食ってしまう・・・。

 こりゃあ、まだまだ野暮ってもんですぜ。

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